父還る

父の告別式が終わりました。
いらしていただいた方々、またいろいろとお気持ちを向けて頂いた方のおかげで無事に式を執り行うことが出来ました。本当にありがとうございました。
昨日の通夜もそうだったのですが、悲しいという気持ちよりは、お疲れ様。であったり、よかったね。という気持ちが強く、不在を嘆く気持ちにはなれず、むしろ父が遍在するようになったと感じるようになりました。
出棺の時に挨拶をさせてもらったのですが、今一つ何を言ったのか覚えていません。多少、父との思い出話をしたように思いますが、こういう時はなんだかどうも苦手です。

父とは音楽の趣味も合いませんし、芸術に関しての趣味が合わないとずっと思って暮らしていましたが、演劇を観に来てくれるようになってからは、同じ類のものを好んでいたように思います。
父のことを思い出すのは、ハードボイルド小説のこと。レイモンド・チャンドラーや大沢在昌なんかを回し読みしたり、銀河英雄伝説のアニメとゲームをいろいろと言いながらやっていたことです。当時思春期後期だった僕と父は話をするのが上手にできずにいて、こういうものを媒介にしては、よしなしごとを話したりしていました。
父の人生で一番に辛かったであろう時期は、母方の祖父の具合が悪くなり始めてから仕事で少し無理をし過ぎていた時期だと思います。その時期の父は帰ってくると三國無双で関羽やら張飛やらを操って無双していました。ストレスが溜まっているんだろうなぁ。と思いながら、それを後ろで見て茶々を入れていたのを思い出します。
この時期を過ぎて、祖父が亡くなり、住まいを移らなくてはならなくなってから、少しして父が徐々におかしくなりました。今まであまり迷子になったりはしなかった父でしたが、急に道がわからなくなったりして、少しおかしいなということがあり、ある日倒れました。脳梗塞でした。一名は取り留めましたが、発語が出来なくなり、右半身が思うように動かなくなりました。彼にとって最も許せない自分でなんでも出来ない状態と一緒に過ごす時間が始まったのでした。

半身が使えなくなったことで、父はやっと家に落ち着くことが出来るようになり、僕が関わっている演劇を観に来るようになりました。それまではなかなか時間が作れなかったりしていたのですが、動けなくなったことで強制的に隠居をしたので時間が作れるようになり、父と会話をする時間も増えていきました。演劇の仕事をしていて本当によかったと思っています。
不思議なことですが、そんな父は僕が演劇に関わることをとても嫌がっていました。どうやって生活をしていくのか、世界をきちんと見ているのかということを問い詰めて、最初に演劇に関わることを諦めさせたのは父でした。おかげで僕は経済を学ぶことになり、父の師匠にあたる人の会社に一年ほど勤めたりもしていました。このちょっとした寄り道が僕に演劇を長く続ける秘訣を学ばせたと思っています。父はそんなつもりはなく、より多くの人と出会える総合大学に通っていろんな人と会うべきだというつもりだったのだと思います。そして、そこで出会った人々によって、「人間とは何か」と言うことを学ぶべきだと気が付かされました。

生半可に面白いと思って始めたことでは、途中で投げ出すんだろうという心配もあったのかもしれません。そして、父自身が様々な出会いによって支えられて生きてきたこと。彼はお人好しで間抜けなところがあったとは思いますが、本性の気の良さに助けられて生きてこられたこと。そして、周りに人を置くのがあまり得意でなかったことなど、人に任せることが苦手だったこと。そういった彼自身がわかっている彼の欠点を僕が継がないように気を付けてくれていたのだと思います。
15の時に父と一緒にした旅から20年経って、今度は父母と共に京都に旅に出ました。父のリハビリも兼ねて、歩いて回れるのは最後かもしれないと、その時に父と行った店に湯豆腐を食べに行きました。法然院の向かいのお店でした。
本当はもっと連れ歩いて行きたいところはあったのだけれども、あまりいろんな場所にはいけなかったな。と、少しだけ後悔をしています。伊藤の家のルーツがあるという場所にも一緒に行きたかったのですが、ついぞ行く機会が持てませんでした。
とはいえ、ここ数年の父の様子を思い出すと、彼は彼なりにとても幸せな毎日を送っていたように思います。孫が騒がしいダイニングの隣にベッドがあり、そこでみんなの様子を見たり、母に叱られながら楽しそうにご飯を食べていたり、ときたま僕が実家に顔を出すとニヤリとしていたり、相変わらず甘いものを出されるときだけ「食べたいです」なんてきちんと話してみたりしていました。そんな彼を見て、彼は今、身体が不自由になった分だけとても自由になっていて、五感で味わえるものをしっかり味わって暮らしていて、いろいろなことを考えていて、とても幸福なのであろうな。と、見ていて思うような様子でした。
父の死因は、老衰です。74歳という他から見たら、まだ若いのにと思うかもしれませんが、彼はきちんと人生を全うしたと思いますし、何より実母よりも長い期間過ごした義理の母である僕の祖母の3回忌までは終えてから、あちらに向かいました。そんな父をとても誇らしいと思います。
今日、久しぶりに父に触れました。出張に行く前からなので約一月ぶりのことです。斎場で待たせてしまっていたので、とても冷たくなっていましたが、父の肌の感触がしました。そして、その感触から彼が良いタイミングで逝けたことや、残された私たちに対しても気を遣った結果で葬儀が送れたのだな。と、感じました。
利性院聞法恭順居士
彼の新しい名前です。
父の恭夫(やすお)という字は、恭しい(うやうやしい)という字を書きます。漢字の変換でやすおと打っても出てきません。僕はいつも恭順と打って、順の字を消して、名前を書いていました。それが戒名に入っていたのがなんだか少し気恥ずかしくなりました。
利とは賢いこと、性とは人の本性、聞とはよく聞くこと、法とは仏の教え、恭とは丁寧に、順とはしたがうこと。仏の教えをよく聞いて恭しく順う。父らしい戒名を頂けて本当にありがたいと思いました。
今のお寺に通うようになって、もう間もなく40年です。父方の祖父が亡くなったときに、祖母の家の縁戚のお墓を伊藤の墓にまとめました。そこから今のお寺に通うようになりました。ご縁続きで母方の祖父が亡くなる前から、自分は次男だからお墓を建てたいという話になり、伊藤のお墓の隣は父方の祖母の縁戚で無縁になったから、それも伊藤のお墓に入れて、隣を空けましょう。ということになり、お隣に母方の祖父のお墓が立っています。納骨されたら、父は父母とお墓に入り、そのお隣に義父母のお墓ということになります。母方の祖父母は父をよくよくかわいがってくれていました。4人ともよくよく父の心配をしていたので、あっちに行ったら四人分孝行をしないとならないとならないので、大変かしらと思ったりもします。
季節ごとにはお花を持って、または手ぶらでもお墓をお参りして、お寺にご挨拶をして、今まで過ごして来ました。いつでもそこに居ると思っていて、僕自身は悩みがあったり困ったことがあると、祖父たちにお参りをして神頼み(仏だのみでもありますが、二人とも神様級の人なので神で)に行っていました。これからもお寺に通って季節を過ごしていくのだと思います。
父と僕の思い出語りが長くなってしまいました。
干し柿の ゆきぐもり 味確かめて
今日からまたしばらく父が実家に帰ってきます。
もうしばらくは、お別れの時間を過ごしたいと思います。