父が旅立ったこと(あるいは解放)

今日、2月1日。
父が旅立ちました。
老衰でした。
僕は仕事で愛媛に居るために、まだ対面は出来ておりません。
もしかしたら、父としては気を遣ってくれているのかもしれないと思います。死がわかってから対面するまでの間に時間をわざわざ置くために、この時期に亡くなったのかもしれません。
Facebookに勢いでよしなしごとを書いたり、Twitterに書いてみたりしているので、それをすこし纏めようと思いました。

父は、言い方はあれですけど、少し変わった人であちらこちらに顔を出しては去っていき、いろんなところに何かを残してきているけれども、あんまり後まで引きずらないタイプの人でした。身体が不自由になってからは連絡する相手も非常に限られていて、直接会う方々くらいとしか交流しないような感じの人でした。

まだ多少身体が動く時に、一度は伴侶を持つ姿を見せられたのはよかったなと思います。母と違って、伴侶持つことについてや仕事のことであれやこれや言うタイプではありませんでした。

僕がなにやかにやいろんなことに手を出しては、行き詰まったりしても何をしてもただ見ているだけで、時折ほんの少しだけ思ったことを言う程度でした。
父も僕もハードボイルドの小説が好きで、日本や海外のもの。レイモンド・チャンドラーなんかをこそこそ読んでいて、そういう中に出てくる男くさいやり取りが好きだったこともあるのかもしれません。外面はいいので寡黙なやり取りをする相手はお互いにお互いだけだったように思います。
お互いに仕事で疲れて帰ってきて、何か話す時にはポツリポツリと話をして、あまり多くを語らずに相手に踏み込まずに、でも相手のことはわかっている振りをする。
そういう親子であった時間が長かったように思います。

2008/10/02 10:42

大分前に脳梗塞で倒れてから半身が不自由になってから15年になります。プライドが高く「出来ないこと」が大っ嫌いで外面がいい人だったので、半身が不自由になったことも大変だったのだろうと思います。でも、それを上回る愛情を母が注ぎ、弟妹が支えてくれたからここまで生きてこられたのだとも思います。たまにしか顔を見せない不良息子としては、彼らに頭が上がりません。今も離れたところにおりますし、なんと言えない気持ちにもなります。
甘いものが大好きだったので、今シーズンの各地の干し柿の出来を食べて確認して、来シーズンは無理だな。と思ったのか。旅立ってしまいました。
観劇が好きで、僕が関わっている芝居を毎回観に来ていました。
何分身体が不自由であったため、各団体の方々にはいろいろとお気遣いを頂きまして本当にありがとうございます。また、観劇に際して、父の周りの席になったお客様方も気にして頂けたので、昨年の年末の公演まで観劇することが出来ました。
僕は表札息子と言われるくらいに父とよく似ていて、中身も大概よく似ている親子でした。父は僕が何かするにつけ、自分がした失敗を息子がしないかどうかをとても心配していて、心配し過ぎてしまって怒り始めてしまったりしていて、自分もそういうところはよく似ていると思います。
父との思い出でよく覚えているのは、15になる年に二人で旅行に行ったことでした。伊勢から大阪まで、神社などを巡りながらお正月に周ったことを覚えています。元服の年になっても落ち着かない僕を見ていて、きちんと話をしようというつもりだったのでしょうか。ともあれ、それを過ぎてからとその前で自分自身の中で大きく何かが変わったタイミングであったと思います。その後は、一人の男として相手をしてくれたことで今の僕が育まれたと言ってもいいと思います。
父は、とても器用そうに見えて不器用で、甘いものが好きで、プライドが高く、口が立つけれども、それが仇となることが多く、いつも忙しそうにしていて、何かを見ることが好きで、考えることが好きで、いつでもどこにいても誰と居ても王様のように振る舞う人でした。
こう書いてみて、自分のことを書いているようですが、父のことです。
ついでに言えば、僕のスノビズムも父譲りだと思います。父は僕の鏡として常に前に立っていて、多分これからも立っていることになるのだと思います。僕はいろいろ言っていても父が大好きだったのだと思います。

この写真は遺影でも撮っておくかね。と祖母のお葬式の時に撮った写真です。
これは普段の父の側面としては、いい写真だとは思います。
でも、僕の好きな父は最初の写真のナナメ上を見て何かを考えているような風情の姿です。

こうして父の死とゆるゆると向き合う時間をくれたのは彼なりの配慮なのかもしれません。
今更だけど、信心というか、お墓のお世話したり、お寺に日々行っていたことが、今の自分を救ってるな。と、思う。特に子供のときから通ってるから、生活の一部になってる。人の死も同じように隣に置いておけるのはそういうように父母に育てられたからで、宗教というものに帰属していることに救われている。
幾度と無く唱えてきた南無阿弥陀仏は、仏様に力を与えて、向こうからこっちを応援してもらうこと。
子供たちに応援すること、されることで、能力が上がることを教えてるけど、それと同じだと思ってる。そのやり方を教えてくれたのは、父だと思う。もちろん御住職も。
南無阿弥陀仏。

ふっと今日甘いものを食べていて、今食べているものの半分は父が食べているのだ。と、なんだか確信的に思った。しばらくは父の好物を食うとそうなるのだろうな。
そんな感覚が降りてきました。
残念ながら、甘いものは好きですが、好みは真逆で、僕はこしあん。父はつぶあん。父は干し柿。僕は干しマンゴー。というように微妙に違いがあります。コーヒーよりも紅茶を好んでいました。僕も昔は珈琲よりも紅茶でした。今はまた紅茶に戻りつつありますが。

親父のことを思い出すと、なぜか大原の海で僕を抱えている写真のことを思い出す。30代前半の父が小脇に僕を抱えていて、波が怖いと泣きじゃくる僕を腰まで海に漬かるところまではいっていって。笑顔で写っている写真があって。本人は水に慣れさせようとしたのかどうか。何にしてもなんだか、とても楽しそうな絵面であったと思う。

他にもう一つの写真があって、すぐには出てこないのだけど、妹と僕に挟まれていい顔をして笑っている父です。父にしては珍しくお父さんらしい顔をしていて、二人の子供に挟まれて幸福そうにしていたのが印象的でした。
生来の恥ずかしがり屋なところがあるので、外ではいろいろと話をしてくるくせに家では、そううるさいわけでもなく、物静かな印象がありました。

父がくれたアイドルタイムを気持ちの整理にあてます。

最後に、生前はご厚情を賜りまして本当にありがとうございます。
お式などにつきましては、家族葬を予定しております。

場所は、落合斎場(地下鉄東西線落合駅から徒歩)
通夜 2月10日 18時から19時まで
葬儀 2月11日 10時から11時まで
喪主は伊藤馨です。

葬儀は家族で行うことになって居ますので、弔問のみ受け付けております。
特に香典などのお気遣いはいりません。
焼香だけでもありがたいです。
今年は天候もおかしいので、あまり無理せずにご自愛頂ければと思う次第です。

葬儀まで少し長い時間がかかりますが、その間に父とのことをもう一回思い出したりしようと思っています。

皆様もご無理なさりませぬよう。

父が旅立ったこと(あるいは解放)」への2件のフィードバック

  1. わー。荒川。ここに書いてくれてたんかい、気が付かなかったわいな。ありがとう。ありがとう。本当に。

  2. お悔やみ申し上げます。

    しばらくは色々大変でしょうが、体調など崩さないようにお気をつけて。

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