日本の文化施設(主に劇場設備を持つもの)について考えている。

日本の文化施設(主に劇場設備を持つもの)について考えている。

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公共の文化施設とは社会教育分野において、重要な位置を占めるものだと思う。市民の文化的程度の底上げを目指して作られている。根拠法とか関連法律とかいろいろあるけど、そこはすっ飛ばして考えて行こうと思う。

文化施設を運営していくためには、箱物、人、利用者が不可欠となる。
箱物である限りは、定期的な設備点検、機材の入れ替えや消耗品の補填が必要になる。そして、それらの金額は社会状況によって変化するものである。当然だがここでの設備点検は外部の業者に頼むことになるので人件費がかかる。

さて、入れ物があれば、それを動かすには管理、運営をしていく人材が必要になる。大きくわけて、3種類のセクションが必要だと思う。表方(製作、制作)、裏方(音響、照明、舞台)、整備清掃など(劇場ベースの考え方ではこのセクションは外注されがち)。
とにかく人がいっぱい必要。

そして、入れ物があるなら、それの利用者も必要だ。利用者も4つくらいのセクションに分かれる。プレイヤー、観客、単なる利用者(これ説明が難しい)、通りすがりの人。
え?とおりすがりの人って、利用者?って思うかもしれないけど、通りすがりの人は大事だと思う。

通りすがりの人っていうのは、文化施設に滞留する人たちのことで、プレイヤーになったり、何かを観たりする目的がなく、なんとなく来る人たちのことだ。場合によっては、空きスペースでデートしてたり、勉強してたりする人たちのこと。その人たちは次の積極的な利用者になり得る。

単なる利用者というのは、ちょっと説明が難しい。要は場所借りみたいな感じで文化施設を使う人たちだ。そこで何かを発表するわけではない。練習のためだったり、会社の表彰とかそういうもので、外向けに何かをしない利用者ということをこの区分に置いておく。
本当におおざっぱに公共のホールの説明はこれくらいにして、考えなくてはいけないことがある。
こういう文化施設をどう査定して、どう予算の適切性を判断するのか。
そして、どういう形の文化施設運用にするのかを誰が決めるのか。
そのためには予算の根拠が必要になる。所謂指標だ。

ありがちな指標としては、施設利用料に関わる収入。
予算措置がある場合は、劇場予算で組まれた公演による収入。
集客が見込めるアーティストの公演などによる利用者数。また、それによる経済効果についての。
でも、これらはこの文化施設が置かれる意味合いの社会教育とは程遠い。

施設がそこの地域に及ぼす効果についての指標を持って判断していかなくてはいけないし、それは一回しか来ない人の数を数えることだけではなく、継続的に施設に居る人たちをどうやって増やすのか、そして、どうやってそれを数えるのか。
施設の支援者を増やすことと言うのも命題だと思う。

そして、文化施設はそこで働く人の質の担保をしなくてはいけない。
社会教育の一歩は働く人たちへの教育と生活の担保をしなくてはいけない。つまり、そこで働く人たちが成長出来るだけの環境と賃金が必要。
継続して働けるための研修も必要になる。
これは固定費なのでカットしてはいけない部分。

施設は使えば損耗するし、消耗品は無くなって行く。ごくごく当たり前のことだ。そして、施設は使われていく中で使い方が変わって行く。それにも対応していかないといけない。作ったら終わりではなくて、システムは常に更新され続けないといけない。

少し、テクニカル寄りの話になるが、ここ10年で劇場で使われる機材の様相は大きく変わってきているし、過去に定番として使われてきたものが使えなくなっていくことが多い。持続可能にしていくための方策が求められている。それらはその施設が利用者に求められることで変わる。

冒頭に、市民の文化程度の底上げを目的としている。というように書いた。その施設がある地域の文化程度を底上げしていくために、必要なのは利用者を増やすことなのは間違いがない。改めて、利用者という人たちが利用しやすい施設というものはどういうものか。

また今後、施設を利用するにあたって、施設と利用者の関係を考えなおしていく必要があると思う。
少し前は利用者が応分の負担をすべきだし、施設利用にあたっての条件を整えるべき。という考えを持っていた。果たして、応分の負担とはなんだろうか。
金銭的なものか、労働的なものか。

施設に専門のスタッフが居るというのは、施設をつかいやすい場にしていくガイドが出来る人たち必要だからでもある。
それには専門の技術や考え方が必要であり、安全に運用するために不可欠であること。また、その地域に対しての効果を継続的に発展させていくだけの企画が必要になるということ。

こういったことを統合的かつ総合的に判断して、どう施設を運用していくのかということを考えた時、指定管理や民間委託にして、それらのミッションをクリアできているかどうかを判断する指標があると思えない運用が多いように思う。

社会教育においてすべての文化施設はその施設の目的に沿った分野の人たちが寄り集まる場である必要があると思う。また、それらを持っているかどうかというのは、その地域が文化を維持するつもりがあるかどうかを表していると言ってもいい。

少し前までの社会では、文化施設を持つということがその地域のトロフィーのような役割が担わされていた。トロフィーは勝ち取ったら、眺めるくらいしかすることがない。
施設はツールなので使われなければ意味がない。トロフィーでコーヒーを飲まない。誰も勝手には使えない。使ったら怒られるだろう。

なので、文化施設には使わせる人たちが必要だ。
施設管理の人たちがすべきことは、安全につかってもらうことであり、施設の維持管理をすることだ。
そう、表方(制作)が重要になってくる。なんとかして使ってもらう方法を考えなくてはいけない。でも、結論から言うとそんなことは無理だ。

利用者を掘り起こしてつかい方を考えるのも難しい。地域に住む人たちや域外の人達に、今時の言葉で言うバッカーになってもらわないといけない。そのためには施設に滞留する人たちを増やしていく必要がある。定期的に施設に来るシステムは簡単には作れない。

「開かれた場」を作るためには、特殊な技能を持つファシリテーターが必要になる。なんらかの目的も必要だったりする。それは地域ごとに違うものだと思う。
個人的な経験としては「茶話会」が最も効果的だったりすると思っている。お茶飲んで話す会。
そのためのワークショップがあってもいい。

そういう仕組みを作るのはとても大変だし、一人では難しい。手前みそだけど、僕の団体のterraceは少しだけその分野に実績がある。集まりを作るというところまでは出来る。それをどうやって維持するのかというところが難しい。ただ、だいたい安価で出来ることだたったりする。

さて、ここで難しい問題が出てくる。
直営でも委託でも指定管理でも、そういう予算まで取ってくることが難しい。文化施設が維持できるギリギリまででコストカットされているからだ。
お洒落でかっこいいトロフィーにはお金をかけたがるが、作った後のものには興味がないのが市民だ。

ぶっちゃけ文化施設を背中から刺しているのは、そこに住む地域の人だったりする。文化施設は勝手にそこにあるわけではなく、名目的に要請があってそこにある。それを生かすも殺すも市民。