七七日たす一日 納骨

昨日、父の骨を納骨してきた。
御経をあげてもらい、一緒に「南無阿弥陀仏」を唱えて、死者を弔う儀式を通りいっぺん行ったということなのだが。
納骨にあたり、どうしても先代の住職が御経唱えたいと申し出てくれた。
子供のころから慣れ親しんでいて、父方、母方の両祖父母をとむらってくれた住職の申し出は、世代の近い父のことを思ってくれてのことだろう。東京生まれの東京育ちで、曽祖父たちが明治になって東京に出てきた家系に生まれたので、田舎というものがない。
そして、どういう経緯が知らないが父方の祖母(三枝子)の家系の菩提寺であったお寺に、父方の祖父(秀夫)が次男であったのでお墓がなく、祖母の家系の杉本家のお墓をまとめて伊藤のお墓を作った。
少し話は逸れるが、杉本のお墓は並びにいくつかあり、母方の祖父(滋憲)は幼少期に大久保の鬼王神社の辺りに住んでいたことがあり、杉本の家も同じ時期に大久保に住んでいたそうだ。鬼王神社の境内で遊んでいたようで、もしかしたら同じグループで遊んでいたかもしれない。こういう奇縁で滋憲さんが次男だったのともあって、三枝子さんに頼み、お寺も快諾して、隣の杉本のお墓も合わせて区画を空けてもらい母方の祖父のお墓も並んで建っている。
父は生きている時間の多くを僕の母方の家で過ごした。二十代の後半で結婚して、坪井の家に来て、生活を伴にした時間は実の父母よりも長かった。俗に言うマスオさんである。
これまた、不思議な話ではあるが、母方の祖父である滋憲さんも母方の祖母の父つまり僕の曽祖父が最近面白いやつにあったから、結婚したらいい。と言って祖父を連れてきて、祖母と出会い結婚した。彼らはお互いを半身のようにして暮らして生きて死んだ。
ここまで話すとありきたりな気もするが、父方の祖父母も同様のことが起きている。父方の祖母の父が父方の祖父の父に「お前のところには男が四人も居るのだろう。長男はなんだから次男の嫁にうちの娘をもらえ。」というよくわからない力関係で結婚した。幸いなのは祖母は祖父を愛していたし、亡くなった後も祖父のことを言わない日は無かった。
そんなわけで僕は伊藤の家に生まれ、坪井の家で育った。
納骨の時に多少迷ったのは、父をどちらのお墓に入れるべきだろうかということだ。入ってしまえば、向こうでは同じことで大した差はないのだろうし、何せ隣のお墓だからすぐ会いに行けるからいいのではないだろうか。という思いと、母方の祖父母と父の関係は親子に匹敵するものであったと感じてもいた。
このお墓というシステムは血統主義的なものが多少あり、血縁については思うところがある。そして、そのお墓の世話をする人は限られている。いつかは居なくなるものだ。恐らく、僕の血縁は僕の世代で終わると感じている。
かなり、話が逸脱した。話を戻そう。
父の話だが、父は生前は多くの知己に恵まれ、全国あちこちに飛び回っては怪しげなことから社会貢献的なことまで、様々なことを関わっていた、身近なところの成功例は郡山の柏屋さん。うまくいったというよりは、時代を先取りしすぎた独居老人の孤宅連絡システム、これは緊急時に公的機関に連絡をして救急車が来てくれるだけで、生活しているかどうかの生存確認が出来るというものであった。今ではSECOMとかがやっている。あとは伊万里の都市コミュニティ再生などもあったか。実は彼の功績についてはほんの少ししか知らない。父のことを知ろうにも父が倒れる少し前に大筋の事業のものについては処分してしまっているからだ。それは大変残念なことでもある。
父である伊藤恭夫が何をなしたか詳しくは知らない。祖父たち(父方は教育学、母方は印刷)が遺した功績はとても大きなものであったが、父がしていた仕事はもう少し人に近いことをしていたと思う。それを感じてかどうかわからないが、人の動向について扱う芸術である演劇に拘り、捉えられ、未だに人との関わりから何かを作り出すことに魅力を感じて、創作を行っている。父の影を追うという意味では、まっすぐ追いかけ続けているとも思う。
そんな父の晩年は外に向いていた目を内に向け、特に母に寄り添って暮らしていた。身体的に不自由であることが彼にそれをする免罪符を与えたのだとすると、かなり恵まれたものだと思う。子供たちもことあるごとに彼を連れ出しては演劇や映画、また話しかけたりして、なにやかにやと世話を焼いていた。かくいう僕も出先では羊羹やだんご、饅頭が好きだった父に「冥途の土産」だ。などと言っては食べさせたものだ。
さて、法要の話に戻るが、引退していた住職の御経は朗々としていて、素晴らしく、参列した親族も慣れたもので、御経を一緒に唱えていた。子供ののころは多少気恥ずかしく、木魚をやたらめたらに叩いていたが、意味がわかって読む御経には力があり、仏様にあげる供物であるとともに自分にも力をもらえるものだということを、これほど感じるとは思わなかった。それぞれの思想信条はあると思うし、宗教もあると思うけれども、自分が浄土宗の檀徒で居て、こうして御経を一緒に唱えながら父を送ることが出来たことはとても有り難いことであると思った。浄土宗の御経は利他的であり、またとても合理的な死との相対しかたであると自分では思う。先祖を供養するということは、自分自身のルーツに関わるものを尊重することであり、それは先日訪ねたアイヌの風習でも同じことであった。
死を少し身近に感じることは、安易に人を傷つけないことの一歩であり、死者と共にあることは自らの心を律する一助となるものなのだ。
七七日は一日過ぎてしまったが、こうして父の骨はお墓に入った。日常的には大きな差もないことではある。喪に服すという概念は外形的なことではあるのだが、幸か不幸かしばらく晴れの場にあまり縁がない。
息子からしてみれば、彼がよい父親であったかはわからないし、自分がよい息子であったとも思わないが、せめても季節の折や日々の節目で祖父母とと共に父を思い出し、念仏を口ずさむことが供養であり、自分を支えてくれる「とむらい」になるのだと思う。