市民運動についてのこと

昨晩の左翼運動がかっこ悪い件について相変わらず考えている。
市民運動というものがどういうものなのか、そこにある集団性と個の関係にゆがみがあり、それが運動の外側から見たときに奇異に見える。
これは、運動に参加している時に個の概念が薄くなり集団に埋もれているからだと思う。
このことを考えるきっかけとなった人の言葉によると、
「身内の感覚が強すぎて他者に伝えることに鈍感である。何より気持ちが悪い。」
集団性に身を任せている状態ではその輪の外への投げかけは個人としての判断が伴わない。
他者性の欠如もだが、それに伴う集団を個人より上位においた状態が気持ち悪いともいえる。

過去の左翼運動でも、学生運動の激化に伴い、内ゲバなどが頻繁に行われるようになったり、個よりも集団に対して奉仕することを前提とした集まりになっていく。
これには公権力による弾圧から個々を守る術としての集団から、集団の維持=個を守る。という図式に変化した結果。集団に奉仕するという形になったということもあるため、結果という意味では同じだけど、現在の同様の運動とは別物であると思う。

話がそれた。
個の思想、信条を集団と一にすること。傾倒していくこと。
これは、集団に個を委託することではないはずなのだが、どうしてもそうなりがちである。
個人主義という言葉を、独善と勘違いしている人が多い。それと同様に、個人というのは永久不変に独立、自立、自律しているものであって、集団にその存在を仮託してしまうものではない。

本来の左翼思想的には、平等原則がある。
そこで、個人の権利を集団に委譲するとは言われていない。

現状の改憲案に見られる、公の秩序という概念は、集団を個人より上位に置く概念である。
残念ながら、反体制運動をやっている彼らはその外側から見たとき、集団に利益を優先しているように見られており。おそらく、もっとも忌み嫌うであろう体制側と同様のことをしていることになっている。

このことは、改憲もそうだが市民運動における感覚として、他者より自らを含む集団が優位である。という思想がどこかにあるからであろうと思う。
他者性を認めない狭量が表に出ているということでもある。
市民運動を行う上での個の成熟が遅れているということも言える。

まぁ。そんなわけで。
ちょっと気持ち悪さの根源が見えてきたところで、今回の考察はやめにしておく。
明日は、ワークショップだし。
個の成熟方面でがんばってくるわ。
思考の言語化を行うことは、個の成熟を促し、集団への個による参加を自律的なものにする可能性があるわけだから。

市民運動についてのこと」への4件のフィードバック

ただいまコメントは受け付けていません。