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新年発は南から。奄美大島初日の夜に考えた。

新年発は南から。奄美大島初日の夜に考えた。 published on 新年発は南から。奄美大島初日の夜に考えた。 への2件のコメント

2014-01-12-121407

2014-01-12-121407MDの伊藤馨です。
PDの長谷と一緒に、今日から奄美大島に来ています。

 

3連休を一日ずらして、今日なら空いてるかも。っていうことで、わざわざ二日前にずらして移動をしたのに。
残念ながら、激混みの飛行機に乗って移動。
明日は成人式なんだよなー。
っていうのを飛行機のアナウンスで実感する。
しかも、今日は日曜なのね。なんということも。
年末年始も人並みには過ごしたはずなんだけど、考えることが多いし。
何より、年明けからバタバタと動かなくてはいけないので、その準備で終わった感じがします。

 

さて、本年の頭は奄美大島の宇検村から始まり、そのまま茨城県に移動。
詳しくは、長谷のblogに書いてあるので。
mloge
http://www.momouta.org/b/mloge/2014/01/12/diary_20140112uken/

 

年末年始にぼやぼや考えていたことがあります。
感覚的なこともあるのですが、こどもたちの言語力がこの一年で極端に落ちたように感じています。
具体的に説明するのが難しいのですが、一つの言葉に対しての語彙力が落ちているというのが正しいでしょうか。
たとえば、僕らがワークショップの中で使っている「わき水」をお題にした詩の創作があるのですが、「水」という言葉を聞いたときにこどもたちから出てくる身体的なイメージが希薄になってきているように感じます。
「水」は言葉としての「水」以外ではなく、そこから音としてや、意味合い的なものによる発展性がないものになってきいるということです。
これは、当然ですが会話の中での言葉使いにも影響してきています。
一つの事物に対しての見解に多面性がないため、会話が押し問答になってしまいます。
一人の中に構築されている言語世界に対して、他者の意見を取り入れることで、再構築されていく、そうして語彙力が増えていくというプロセスを踏んでいるはずなのですが、この再構築がうまくいかないので、よくよく創作されたものを観察してみると、構築されている言語世界が非常に平面的なものになっていました。
これは、誰か個人のことにフォーカスをあてているのではなく、各地のワークショップの様子を見て感じたことです。単年度ごとの違うこどもたちも、経年度を追いかけているこどもたちも同様です。

 

読書が足りないのじゃないか。
これも一つ考えたのですが、単純な読書量だけで言えば、統計で見ても増えているように思います。読んでいるものの質を加味しなければ。

 

そして、そのことが何を生み出しているのかをこの年末年始に考えていました。
結論づけるほどのことは何も思い浮かばなかったのですが、実家でぼんやりテレビを見ていて、これは一つあるな。と、思ったことがあります。
延々とバラエティ番組が垂れ流されるお正月番組。
そこには口語のみによる選び取られてない言葉たちの偶然性の強い産物で満たされていました。
再現性のある言葉ではなくて、再現性のない偶然性で作られたもの。
演劇は、むしろその対極にあって、再現性がなくてはいけないもの。
こどもたちに演劇の真似事をさせる。
ワークショップで扱っているのは演劇ではあるけど、こどもたちが演劇を真似事以上に取り組んではいけないと考えているため、こういう書き方になってしまいます。どうして、そう考えているかを説明するだけで、ものすごい時間がかかるので、世阿弥先生の風姿花伝を読んでいただければと思います。ちょっとだけ引用。
「第一  年来稽古条々 七 歳 一、この芸において、大方七歳をもて初めとす。このころの能の稽古、かならずその者しぜんといたすことに得たる風体あるべし。」

 

自分がこどもの自分はバラエティ番組の方が少なくて、大方はドラマが大勢を占めていました。その中で、「誰かが選び取った言葉」による「再現された会話」を見ることが多く、それを日常の口語のやり取りに加えて記憶していったのだと思います。
当然、本も読んでいました。
少し、話が戻りますが、読書量は減ってないけれど、質が下がってるのではないか。
この点については、自分たちが行っている範囲の中での特徴として、「伝記」が読まれていないということには、もう何年も前から気になっていることでした。
「伝記」には人生が描かれているので「圧倒的な挫折」があります。
そういったものに触れないことも大きなことなのかもしれない。などと考えてみたりもします。

 

一つ気が付いたのは、こどもたちがこの一年という短期的な期間で「演劇」の「真似事」をするための「お手本」がない。ということなのかもしれない。ということです。
私が感じるのは、こどもたちが日常の中で、触れることで成長してきた何かが欠けてきているという不安と危惧です。
ワークショップというある種の日常を集大成した時間を扱うものとして、少しの変化を大きくとらえているのかもしれません。

 

他者との融和の前に、自己との融和が出来てないことが大きな問題です。
人は鏡でしか、自分の姿を判別できないものです。
その鏡にあたる部分が徐々になくなっているということなのかもしれません。
1年間の数日しか関わらない僕たちにとって、出来ることはとても少ないと思います。
一方で、ほんの数日だから出来ることも多いはずです。

 

新年早々、おかたい感じですが、自分たちの社会的な役割の大きさを踏まえつつ。
まだまだ、社会の端っこの方に引っかかってるだけの僕たちをよろしくお願いいたします。

 

 

 

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