「公共」「劇場」とはなにか

先日、いわきに行ったときに劇場が使いづらいという話を聞いた。
いわきにあるアリオスという劇場は公共劇場である。
市が持っている劇場。

公共劇場といういうのは、パブリックなシアターであるということ。
僕は世田谷パブリックシアターが出来なかったら、多分照明の仕事をしていない。
舞台の仕事をしたいと思っていたものの、何をしていいかわからず、舞台監督の小番をしていたところに、話が舞い込んできて、舞台照明の仕事についた。
当時の世田谷パブリックシアターは、夢と現実が次々に襲ってくるようなそれはそれは恐ろしいけど楽しいみたいなジェットコースターみたいなところでした。
僕が舞台そのものよりも劇場に興味を持つようになったのも、それが原因だし、いまだにこの仕事を続けているのも世田谷パブリックシアターで学んだことを礎にしていると言っていいと思う。

そんな僕に劇場が使いにくい。という話をされた。
なので、公共劇場とはなにか。ということについて、がんばって説明したが説明しきれたかどうかわからない。むしろ混迷を極めたのかもしれない。
公共劇場はいうなれば市民のための文化拠点である。
これは前提条件だと思う。
文化拠点が使いにくい。というのは、いったいどういうことなのかということについて、詳しく聞いた。
そこでわかったのは、劇場というものの前提条件がまったく概念が違う。
劇場というのは維持するために、複数のセクションがある。
機構(舞台)、音響、照明。そして、制作(表回り)、製作(プロダクション)。
こういったセクションが連動して動くことによって、劇場は動いている。
そのセクションを一から説明をしなおした。
講演会やワークショップなど、さまざまなことで劇場を使っている人にだ。

これは本当におかしな話である。
劇場が運営されているということについての知識がなく、劇場を使っている。

例えば、劇場をなんらかの目的で使いたいと思ったときに、僕たちの感覚で言うと各セクションに合わせた担当者が存在するべきだと考える。これは劇場を普段使う側(プロ)の感覚であるということを再認識した。
劇場のロビーのドアを開けるためにはフロントスタッフがいる。当然、客席に関しても同じ。そして、舞台に上がるためには舞台監督や舞台スタッフがいる。音を出すには音響スタッフ。明かりをつけるには照明スタッフ。これらは普段使う側にとっては当たり前のことだけど、年に数回しか劇場に来ない人にはわからないことである。

市民が劇場を育てる。ということをよく言われるが、劇場も市民を育てなくてはならない。なぜ、そのセクションが必要なのか。そのことについて明確に答えられる人が居なくてはならない。
アウトリーチやワークショップ。そういうこと自体についてもそれはそれで大事なことだけど、劇場を使う人たちが困らないようにするために必要なことを用意する必要がある。
そして、考えなくてはならないのは公共劇場の「公共」とはなんなのか。
その意味をしばらく考えていたが、いまだにちゃんと答えられる自信がない。
公正に共働する場というのが、今の考えである。
劇場というのは、時間貸しのカラオケボックスではなくて、自分の前も誰かが使い、自分の後にも誰かが使う場所である。
なので、劇場を使うために公正なルールが必要になる。そして、劇場内でのセクションに応じた責任者が居ることで、その劇場が前の誰かが使ったものを引き継いで、また次に受け渡していく。それはある一定の状態に戻すということも同じことだと思う。このある一定の状態というのはプリセットと呼ばれる。基本の状態のことを指す。

若いころは、劇場はプロの仕事場だから素人は入ってくるな。みたいな気持ちでいたこともある。今考えると大変バカげた話だと思う。プロの仕事というのはそういう欺瞞で作られるものではなくて、真摯に作品と向き合うときに使うものだ。
どんな素人でも、劇場というものは門戸を開いていて、知りたいことは何でも教えて、知って面白いと思ったら、もっと劇場を使ってもらう。なんなら運営に携わってもらう。そういうことが今の世の中では当たり前のことになってきている。
劇場というものが、ある種の権威として存在するのは本当にバカらしい話で、出演者たちよりも観客、そして、劇場で何かをしようという人達に最大限の門戸を開いていないのは、劇場から始まる文化というものを閉ざしていると言ってもいい。

劇場を動かしているのは人だ。
セクションに分かれているということは、つまりそれだけの人が関わって運営されている。そして、その人のことを知ってもらおうということは、何も公演ばかりではない。
劇場を使いたいという人達へのちょっとした説明も同じことなのだ。
だからこそ、劇場を運営している人たちを愛してもらう必要がある。何もなく愛だけを欲するのは駄々っ子のすることだ。
どうやったら知ってもらえるのかということをもっともっと苦心しなくてはならない。
これは劇場に関わらず公共サービスと呼ばれる仕事のほとんどは常に説明責任にさらされているもので、きちんとした説明が出来ることというのは、劇場に限らず必要なものだ。
劇場こそが、大人にとっての学び舎になれる場所だと僕は信じている。
だからこそ、この窮状を聞いて、とても悲しい気持ちになった。
どのように劇場というものと関わっていくのか。そのことについてもう一度深く考えたい。