観劇記録 黒ひげキャラバンの「地球祀」

観劇記録 黒ひげキャラバンの「地球祀」
昨日はアリオスの小劇場で黒ひげキャラバンの「地球祀」を観てきた。
総じて、自己愛に溢れた作品だと思う。
登場人物たちは全て自分自身への愛情を叫び、それは当然ながら他者には伝わらない。
愛情は叫んだ時点で自己愛にしかなりえないというパラドックスを悪い意味で反映していると思う。
今回の作品は、草野心平作品へのオマージュと銘打っていた。
作品内容や演技以前の問題として、草野心平の作品の言葉を使うことに対しての尊敬が微塵も感じられなかった。自分にとって草野心平の作品群は重要な位置を占める作品であるということもあり、余計にそう感じるのかと思ったが、どのように考え直しても、作品に対する尊敬は見出せなかった。
過去の表現者の行為からインスパイアして作品を作るときに、そこにはなんらか尊敬であったり、悪意であったり、というものがない状態で作品化してはいけない。
ある種の悪意があれば、そこにはパロディとして成立するということもありうる。
それには、高度技術や知識の集積が必要なのだ。
なぜ、そうだったのかということはあとで触れたいと思う。
俳優たちは荒が目立つもののそれなりにがんばっていた。
声を大きくして、言いたいことを言うという演技方法が目立ったため、言葉として聞こえてこなかったり、細かい促音や濁音、半濁音の判別がつきにくくなってしまい勿体ない。
俳優たちについて言えば、言葉を身体で表現する、もしくは、身体で何かを表現するというときに、伝えるべきことを身体で一回、言葉でもう一度言う。
たとえば、身体で「面白い」ということを表現し、その後に言葉で「面白い」という。
順番が逆も然りで、同じことを強調して伝えるのではなく、ただ2回伝えられるということがしばしば起きていた。台詞を身体化していくプロセスをより意識して、言葉を扱った方がいい。
逆に、身体性がなく、ただ言葉だけで物事を伝ようとすることも多かった。
表現者として、矢面に立つ俳優たちはプロやアマの差があるとは言え、舞台の上で公演を打つ限り、そこで出来る最大限のことをする権利と義務がある。
だからこそ、次はよりよい方法を手に入れられるよう試行錯誤して欲しいところだ。
ここからは俳優ではなく、演技中のメタ化についてだけれども、これは俳優たちにとってリスクが大きい方法だと僕は感じている。
なぜなら、演技をしている身体から、演技をしていない身体への落差、それに空気の変化がメタ演技をする利点であり、緊張しやすい場面で観客をほぐしたり、異化することによって作品に集中することが出来る。
これには、それなりのスキルが必要で、「演技をしている」身体から「演技をしていないという演技をしている」身体への落差が必要になってくる。それには高度な演技技術が必要だからだ。
もしこの落差が少ない状態でメタ化を行うと俳優たちが芝居に対しての向き合い方を間違えてしまい、悪ふざけをしているようにしか見えない。
今回の出演者には残念ながら、その落差を作れるほどの俳優は居なかった。そのため、前半部で度々出てきたメタ化は悪ふざけにしか見えなかった。
この点については、いや、全ての点において、俳優たちを責めるつもりはない。
演出家は、俳優たちが最高よい状態で望めるように作品を調整し、本番の幕を上げる義務がある。彼らの俳優としての出来如何ではなく、俳優たちが最大限演技を行えるよう、そして彼らの有り様をよりよく見せる義務があると僕は考えるからだ。
普通に見て、この作品は駄作である。
わざわざ、その作品について時間を割き、考えて、文字化までしようとすることには意味がある。
この作品での草野さんの言葉の使い方に大きく問題があるという根拠は、先に書きたいものやりたいことありきで、その作品をなんとなくつまみ食いのように扱っているということだ。
このドラマから草野さんの作品たちを抜いても、作品は成立してしまう。
それは、この作品と草野さんの言葉が融合していない証拠でもある。
こういう誤用(本当は誤用という書き方はおかしいがあえてこう書く)は、元の作品たちに礼を失しているだけでなく、無知であることの誇っているかでさえあると思う。表現において、特に引用するということについては無知は罪である。
情報として、作品を読んだか読まないかということではない、上演された作品からは適当に自分たちの都合のいい言葉だけを抜き出して、戯曲の中に散りばめただけでしかない。
知識がない人間が見たら作品に対しての誤解を与えることになるような使い方は、作為的で無ければならないと思う。今回は作為すら感じられなかった。
戯曲の構造としての稚拙さは問題ではない、自分が書きたいことのために物事を捻じ曲げるなら、それを突き通すだけの表現力や作品に対しての愛情を持ってするべきだ。それがない。そのことが人の言葉を使うのに必須だと思う。
アマチュアであることは言い訳にならない。表現者として、プロとアマに差はない。
オマージュであるのならば、どこを芯としてその作品たちに向き合ったと言えるのか、その言葉の改変をすることが本当に必要なのかという、検証が行われていない作品はオマージュという言葉を使ってはいけない。
戯曲としてよくない点としては、登場人物たちにとっての目的や障害、そして、それを乗り越える姿が描かれていないからということが一点。
焦点として描くべき事柄というのが全て外で起きているという点。
クライマックスといえる部分に持ってきている事柄が全体の中の山として小さすぎるということ。
全体としての目的が散漫で、何がしたいのかどうなりたいのかが見えない。
たとえば、一番大きなこととして、地球祀が終わったことにより、何が達成できたのかが描かれていない。
ここにカタルシスが起きることはあっても、心平を蛙たちが受け入れることによって、カタルシスは起きない。ドラマとは何か、戯曲とは何か、そこからもう一度考え直したほうがいいと思う。
テクニカルな点については下記に列挙しようと思う。
セットについて、真ん中の山台についてはがんばっていたと思う。これがあるとなしでは大きく印象が変わるだろう。ただ、惜しむらくは人のサイズからみた岩や竹であり、蛙であるということを意識させるには、もう一工夫が必要だったように思う。バックがホリゾントではなく、大黒幕か、劇場壁でよかったように感じる。ホリゾント幕を使ってしまうことで、暗転が効かなくなり絵が壊れていた。
でも、力作であり、作品の助けになっていた。
衣装について、がんばっていたとは思うが、衣装が意味合いを持つ程度までのことではなかった。特に、途中の心平が甚平に着替えるのは、無くてもいいように思う。衣装が表現する、キャラクター像というものの意識が低いように思う。ただ、酷評しておいてなんだけど、僕としては土の匂いがするという意味では悪い衣装ではないと思う。
選曲、音響について、選曲は作っている段階での演技の穴埋めのように音を入れている印象が強い。ボリュームも大きすぎたり、小さすぎたりが大きく、演技の邪魔をしているときさえあったと思う。
客入れから開演の曲の長さが異常に長いのも気になった。
気になる理由としては、開演のための曲であろう曲が流れ始める、観客たちは観劇姿勢へと体を変える。
が、流しきりで曲を選んでいるため、長い時間その状態をキープしなくてはならない。
人は何かが起こるぞという合図から待てる時間というのは、そう長くないため、観劇姿勢は解除されおしゃべりへと移行する。
突然、ボリュームが上がりびっくりするが、また長く聞かされることにより飽きる。
というようなことが起きていた。
これは一例であり、曲を流すために必要要件やなぜその曲なのかという理由が見出せない音楽というのは、邪魔にしかならない。この点を考えたほうがいいだろう。
使っているスピーカーでメインで鳴っているのが、サイドのスピーカーであったのも問題だと思う。
恐らく、サイドとプロセミアムのスピーカーをメインで使っていたのだと思うが、そのため音像が客席と舞台の間に音のフィルターのように作用して、薄っぺらい音環境を作っていた。
作品にとって、音楽が流れるということには意味合いが強いものなので、状況に応じて奥からの音が入る必要があったのではないかと思う。
照明について、全体として、見たいところが見えない。もしくは無駄に明るいという印象でした。ホリゾントを使って時間を表そうとするがゆえに余計に稚拙さが目立つ結果になったように思う。
バックからの斜光を使ったり、SSを使ったりと工夫は見られるが「やってみた」という印象が拭えない。
るりるの唄の明かりが分かりやすく良くないといえる点で、斜めからのバックとるりるを中心としたバック、見せたいのはわかるが、げりげまでも明るくしてしまい、結果何が見せたいのかというところがぼやけてしまっていたように思う。
照明は今何が見せたいのかという芯を持って明かりを作ること。それは作品全体と見合っているのかということが重要な点になる。ここがずれているとただ明るくして、色を入れて見ましたという明かりになってしまう。
また、暗転が無駄に多い。しかも短いシーンの間に何度かの暗転は観客の気持ちを覚ますのに十分な時間を与えてしまう。
ここも考え直したほうがいいと思う。

昨日はアリオスの小劇場で黒ひげキャラバンの「地球祀」を観てきた。

総じて、自己愛に溢れた作品だと思う。

登場人物たちは全て自分自身への愛情を叫び、それは当然ながら他者には伝わらない。

愛情は叫んだ時点で自己愛にしかなりえないというパラドックスを悪い意味で反映していると思う。

今回の作品は、草野心平作品へのオマージュと銘打っていた。

作品内容や演技以前の問題として、草野心平の作品の言葉を使うことに対しての尊敬が微塵も感じられなかった。自分にとって草野心平の作品群は重要な位置を占める作品であるということもあり、余計にそう感じるのかと思ったが、どのように考え直しても、作品に対する尊敬は見出せなかった。

過去の表現者の行為からインスパイアして作品を作るときに、そこにはなんらか尊敬であったり、悪意であったり、というものがない状態で作品化してはいけない。

ある種の悪意があれば、そこにはパロディとして成立するということもありうる。

それには、高度技術や知識の集積が必要なのだ。

なぜ、そうだったのかということはあとで触れたいと思う。

俳優たちは荒が目立つもののそれなりにがんばっていた。

声を大きくして、言いたいことを言うという演技方法が目立ったため、言葉として聞こえてこなかったり、細かい促音や濁音、半濁音の判別がつきにくくなってしまい勿体ない。

俳優たちについて言えば、言葉を身体で表現する、もしくは、身体で何かを表現するというときに、伝えるべきことを身体で一回、言葉でもう一度言う。

たとえば、身体で「面白い」ということを表現し、その後に言葉で「面白い」という。

順番が逆も然りで、同じことを強調して伝えるのではなく、ただ2回伝えられるということがしばしば起きていた。台詞を身体化していくプロセスをより意識して、言葉を扱った方がいい。

逆に、身体性がなく、ただ言葉だけで物事を伝ようとすることも多かった。

表現者として、矢面に立つ俳優たちはプロやアマの差があるとは言え、舞台の上で公演を打つ限り、そこで出来る最大限のことをする権利と義務がある。

だからこそ、次はよりよい方法を手に入れられるよう試行錯誤して欲しいところだ。

ここからは俳優ではなく、演技中のメタ化についてだけれども、これは俳優たちにとってリスクが大きい方法だと僕は感じている。

なぜなら、演技をしている身体から、演技をしていない身体への落差、それに空気の変化がメタ演技をする利点であり、緊張しやすい場面で観客をほぐしたり、異化することによって作品に集中することが出来る。

これには、それなりのスキルが必要で、「演技をしている」身体から「演技をしていないという演技をしている」身体への落差が必要になってくる。それには高度な演技技術が必要だからだ。

もしこの落差が少ない状態でメタ化を行うと俳優たちが芝居に対しての向き合い方を間違えてしまい、悪ふざけをしているようにしか見えない。

今回の出演者には残念ながら、その落差を作れるほどの俳優は居なかった。そのため、前半部で度々出てきたメタ化は悪ふざけにしか見えなかった。

この点については、いや、全ての点において、俳優たちを責めるつもりはない。

演出家は、俳優たちが最高よい状態で望めるように作品を調整し、本番の幕を上げる義務がある。彼らの俳優としての出来如何ではなく、俳優たちが最大限演技を行えるよう、そして彼らの有り様をよりよく見せる義務があると僕は考えるからだ。

普通に見て、この作品は駄作である。

わざわざ、その作品について時間を割き、考えて、文字化までしようとすることには意味がある。

この作品での草野さんの言葉の使い方に大きく問題があるという根拠は、先に書きたいものやりたいことありきで、その作品をなんとなくつまみ食いのように扱っているということだ。

このドラマから草野さんの作品たちを抜いても、作品は成立してしまう。

それは、この作品と草野さんの言葉が融合していない証拠でもある。

こういう誤用(本当は誤用という書き方はおかしいがあえてこう書く)は、元の作品たちに礼を失しているだけでなく、無知であることの誇っているかでさえあると思う。表現において、特に引用するということについては無知は罪である。

情報として、作品を読んだか読まないかということではない、上演された作品からは適当に自分たちの都合のいい言葉だけを抜き出して、戯曲の中に散りばめただけでしかない。

知識がない人間が見たら作品に対しての誤解を与えることになるような使い方は、作為的で無ければならないと思う。今回は作為すら感じられなかった。

戯曲の構造としての稚拙さは問題ではない、自分が書きたいことのために物事を捻じ曲げるなら、それを突き通すだけの表現力や作品に対しての愛情を持ってするべきだ。それがない。そのことが人の言葉を使うのに必須だと思う。

アマチュアであることは言い訳にならない。表現者として、プロとアマに差はない。

オマージュであるのならば、どこを芯としてその作品たちに向き合ったと言えるのか、その言葉の改変をすることが本当に必要なのかという、検証が行われていない作品はオマージュという言葉を使ってはいけない。

戯曲としてよくない点としては、登場人物たちにとっての目的や障害、そして、それを乗り越える姿が描かれていないからということが一点。

焦点として描くべき事柄というのが全て外で起きているという点。

クライマックスといえる部分に持ってきている事柄が全体の中の山として小さすぎるということ。

全体としての目的が散漫で、何がしたいのかどうなりたいのかが見えない。

たとえば、一番大きなこととして、地球祀が終わったことにより、何が達成できたのかが描かれていない。

ここにカタルシスが起きることはあっても、心平を蛙たちが受け入れることによって、カタルシスは起きない。ドラマとは何か、戯曲とは何か、そこからもう一度考え直したほうがいいと思う。

テクニカルな点については下記に列挙しようと思う。

セットについて、真ん中の山台についてはがんばっていたと思う。これがあるとなしでは大きく印象が変わるだろう。ただ、惜しむらくは人のサイズからみた岩や竹であり、蛙であるということを意識させるには、もう一工夫が必要だったように思う。バックがホリゾントではなく、大黒幕か、劇場壁でよかったように感じる。ホリゾント幕を使ってしまうことで、暗転が効かなくなり絵が壊れていた。

でも、力作であり、作品の助けになっていた。

衣装について、がんばっていたとは思うが、衣装が意味合いを持つ程度までのことではなかった。特に、途中の心平が甚平に着替えるのは、無くてもいいように思う。衣装が表現する、キャラクター像というものの意識が低いように思う。ただ、酷評しておいてなんだけど、僕としては土の匂いがするという意味では悪い衣装ではないと思う。

選曲、音響について、選曲は作っている段階での演技の穴埋めのように音を入れている印象が強い。ボリュームも大きすぎたり、小さすぎたりが大きく、演技の邪魔をしているときさえあったと思う。

客入れから開演の曲の長さが異常に長いのも気になった。

気になる理由としては、開演のための曲であろう曲が流れ始める、観客たちは観劇姿勢へと体を変える。

が、流しきりで曲を選んでいるため、長い時間その状態をキープしなくてはならない。

人は何かが起こるぞという合図から待てる時間というのは、そう長くないため、観劇姿勢は解除されおしゃべりへと移行する。

突然、ボリュームが上がりびっくりするが、また長く聞かされることにより飽きる。

というようなことが起きていた。

これは一例であり、曲を流すために必要要件やなぜその曲なのかという理由が見出せない音楽というのは、邪魔にしかならない。この点を考えたほうがいいだろう。

使っているスピーカーでメインで鳴っているのが、サイドのスピーカーであったのも問題だと思う。

恐らく、サイドとプロセミアムのスピーカーをメインで使っていたのだと思うが、そのため音像が客席と舞台の間に音のフィルターのように作用して、薄っぺらい音環境を作っていた。

作品にとって、音楽が流れるということには意味合いが強いものなので、状況に応じて奥からの音が入る必要があったのではないかと思う。

照明について、全体として、見たいところが見えない。もしくは無駄に明るいという印象でした。ホリゾントを使って時間を表そうとするがゆえに余計に稚拙さが目立つ結果になったように思う。

バックからの斜光を使ったり、SSを使ったりと工夫は見られるが「やってみた」という印象が拭えない。

るりるの唄の明かりが分かりやすく良くないといえる点で、斜めからのバックとるりるを中心としたバック、見せたいのはわかるが、げりげまでも明るくしてしまい、結果何が見せたいのかというところがぼやけてしまっていたように思う。

照明は今何が見せたいのかという芯を持って明かりを作ること。それは作品全体と見合っているのかということが重要な点になる。ここがずれているとただ明るくして、色を入れて見ましたという明かりになってしまう。

また、暗転が無駄に多い。しかも短いシーンの間に何度かの暗転は観客の気持ちを覚ますのに十分な時間を与えてしまう。

ここも考え直したほうがいいと思う。

スタッフワークについて、こまごま書いたけれども、テクニカルなことに関してはどこでもいいから自分たちの作品について考えてくれる技術を持った人を見つけて、きちんと相談したほうがよいと思う。

特に大きな劇場や設備の整ったところを使うにはそれなりの技術が必要になってくる。

アイディアを相談するだけでもいい。とにかく作品を作るためになりふりをかまわないというのが必要なのではないかと思う。

思いこそが人を動かし、よりよい作品を作っていくのだから。

厳しい言葉ばかり並べて申し訳ない。