高校演劇のことから、世の中のことを考えてみた。選挙も近いしね。

11月30日にTwitterで記述したことを加筆修正したものです。

スタートラインは、たぶん昨今の高校演劇のもてはやされっぷりがおかしくないかってことから始まったはず。

そして、発火点になったのは、高校演劇がらみのいくつかのツイートであったと思うけども、あくまでも、発火点でしかなくて延焼していった理由は普段から考えていたことが形になったということだと思う。
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高校演劇ごときと、プロの演劇を並べられるのは、大変不本意だし。未成年をブランドにして扱うのは風俗と同じ。決して芸術としての評価ではなく、単にキャッチーであり、経済的に大人の欲求を満たす慰み物にしているだけのことである。もし、それに負けるのだとしたら、日本の演劇は終わってる。

よってたかって食い物にしていることに気がつかないというのは罪なことだ。そんなことは思わないのだろう。気がつかないからこそ、そのように持ち上げるのだろうし、そこに可能性を見るのだとしたら、僕はあなたには芸術家としての資格がないのだと思うし。鑑賞者としても屑以下だと思う。

高校演劇繋がりで思うところとして、高校野球とは同じに扱う人がいるけど。スポーツと芸術は根本的に見方が違う。そもそも芸術において優劣は主観的なもので、それで勝つ負けるなんてことはない。統一ルールで戦ってるわけでもない。とても理不尽な世界だし、なんの技術を競ってるわけでもない。

まぁ。そんな僕は高校演劇をやっていた。世の中的にその後の受け皿なんてものはない。野球や吹奏楽とか他のものは、なんらか受け皿が存在してるけど。高校で演劇をやっていても、その先に繋がる道がない。だって、体系化されてないし。誰もきちんと胸を張って教えられない。日本の演劇はまだその辺。

演劇を取り巻く環境としては、特に教育に関して、日本はいわゆる先進国のなかでも底辺に属している。アジアの中でもほぼ底辺に属している。四半世紀まえはまだましだったけど。今はどんどん抜かれてる。それだけ社会的な地位を作ることが出来なかったということだ。

今の日本は余裕がもあった時に、その時の人たちが全部食べちゃった後の残りかすでしかない。経済も政治も芸術も農業も何もかも。しかも、食べちゃった人はまだ食べ続けている。次に残すための種も食べちゃってる。次代には貧窮しかない状態であり、今現在でさえ、あっという間に枯渇する寸前なのだ。

てわけで、東北とかだけでなくて、ちょうど僕らくらいから下の世代は、きちんと世の中を立て直す方法を戦争や革命以外の方法で見つけなくてはならない。スマートシティみたいな耳障りのいい言葉ではなくて、どう人と関わり生きていくのかを探さなくてはならない。のであるよ。

得てして、未必の故意の加害者は、その害について考えない。その結果が今だ。そして、次に進むための一つの方法として、一旦延命をするしかない。次の選挙で問われるのはその部分だ。政党に賛同できることがあろうが無かろうが参政権を手放してはならない。白票ではダメだ。ちゃんと投票をしなくては。

革命じゃない戦いとはなんだろうか。少なくともビッグブラザーの形成を食い止めること。今しなくてはならないことはそれだ。そして、香港や台湾をしっかり見ることなんじゃないかと思う。あそこは150年前から日本より先に居る。彼の地で起きることは日本でも起きる。

 

子供の頃から舞台に関わっていると、この業界は選ばれし者しか居られない場所なのだなぁ。と、常々思う。ただ、選ばれるに足る資質を持ち、その上で努力を怠れば、いつでも居場所がなくなる。そんな場所である。夢や希望で前を見るところじゃなくて、絶望を覗きこむところなのだよ。舞台とは。

もちろん、舞台上から見せるものは希望であっても、舞台に立つ人間は基本的に絶望と向き合う必要があり、それが出来ない人は舞台に居る資格なんてものはないのだけど。なんとなく立っていることも出来てしまう場所であるというのも怖いところである。

当然ながら、「舞台」という場所を各々「職場」という形で表すことも出来る。そこでは、常に出来ないかもしれないこと。と、向き合う必要があり、どこかで何らかの形でバイアスがかかってる。そこを居心地のいい場所にしていくことも可能ではあろう。

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が、居心地のいい場所とは得てして創造的な環境とはまた違う。自分と向き合うことの出来る環境を持たない限り、この先に待っている世の中とのたたかいは難しい。そのための武器はお金でも技術でもなく、知識や知恵と呼ばれるものである。

知識という言葉は、非常にあいまいな言葉である。超高度情報化社会の現在では個人というのは、単なるデータでしかない。その上でそのデータをきちんと情動の面で活用できる人間だけが、生きていく力が身についていく。各人が各人の持つ才能について自己理解をすることだけが生き抜くための手段である。

ここで言う知識というのは、自分に対しての情報を基盤として積み上げたものであると仮定した場合。理想とする自己。と、現実の自己。との差を正しく理解したものにしか、手にすることが出来ないものが知識ということになる。他者性というものも自意識を基準としてしか手に入らない。

自意識を正しく持つための方法は、他者との関わりの中での自己を分析、検証する以外ににない。一つ一つの行為、行動において、自分自身の行動がどうであったのか、また同時に内的な情動がどう働いたのか。ということを理解するしかない。それらについて完全なものはない。

自己像とは、それだけあいまいであり。自意識とは曖昧なものの上にしか存在しない。つまり、何時でも自己崩壊が可能な状態である。そうであった場合。自己の中にある絶望や闇に勝てるだけの強さを持つ必要があるが、人間が社会的な動物である以上、それは他者との関わりからしか得られない。

言葉よりセリフを探してるのだろう。
そう歌っていた岡村靖幸に共感したのは、身体性が伴った言葉を使うことが出来ず、自分の持つ語彙の外にある言葉で何かを伝えようとしていることに対しての歯がゆさを歌っていたのかもしれないと思った。

きっと昔よりも今は常にそうなのかもしれない。

ネットワークにつながって、単なるデータを見ることで何かを知った気になっている僕たちは、身体のない言葉を駆使して、机上の空論を並べることに終始している。

そんな僕たちだけど、次のことを考えて準備するために、本当に自分の身体から出てくる言葉ってなんだろうか。って、考え始めないといけない。

そうして、選挙に行こう。

それは、自分の手から何かを捕まえるための一つの大事な作業である。

ネットワークだけで判断するのではなく、自分の未来に向かっての一歩を踏み出すためにも。