集まって話してみた結果を少し。

terraceの公式のブログにも、Ustreamのプレイヤーを追加しました。

「学校での演劇ワークショップについて- ちょっと集まって話をしてみました」について

http://ustre.am/SZIa

なんか、いろいろ言い残したこともいっぱいあるし、考えなくてはいけない宿題も増えたような気がします。

集まってみて、一番よくわかったことは、
「自分たちがマイノリティであること。」
でした。
そのことについて、卑下して、そう感じたというわけではなく。
純粋に、この集まりが向かうであろう方向は、今の段階では少数派であり、それでかまわない。ということでした。
我々が向かうべき先の世の中がどういうものなのかは、自分だけのライフサイクルの中だけはもしかしたら変化しきらないものなのかもしれません。
ただ、今、やらないといけないのであろうな。と思っています。
ここ100年くらいの日本は、日本の歴史には珍しく記録をきちんと残していない時期になります。

日本のことを考えると、時折折に触れ、合議をし、これでもかと話し合いをして、歴史が進んでいます。
他の国の歴史の流れと比べても、本当によく話し、記録を残す国であると思っています。

一般的に外国に触れることが可能になって、50年足らず様々な言語を翻訳してしまい、自国の言葉で海外のテキストが読める国というのも珍しいと思います。しかも、諸外国に比べて非常に安価で。

そんな国が忘れてしまったことや、抜け落ちているものがあるのが、今の状態なのだと思います。
まず、我々は話し合いが得意な国民性を持っているということです。
どの記録を見ても、多くの場合様々な形で合議が行われ、とにかく話をしているということは間違いないことです。

では、なんで、そういうことがうまく行かなくなってきたのかということを考えていくと、一つには移動や情報の速度が上がったことにより、均質化がもたらされたことにあると思います。特に、言語の均質化が起きたことで、日常の話し言葉と公的な話し言葉の差が無くなっていったことは大きいと考えています。
そのことを考えると、話し言葉つまり日常の言葉、方言というような口語ベースのものと、公的な話言葉、標準語はある意味文語ベースのものであるともいえるのかもしれません。
口語を文語に変化させるプロセスは、他者との間の関係性についての意識を高め、その距離感をはかり、他者性と同時に自己の独立性を確保する手段となります。
これらのプロセスは、論理性や感情理解など、日常的に他者との関わりにおける必要な技能的側面を含んでいると考えています。

こういったことを考えつつ、ワークショップという別の観点から教育分野に関わるにあたり、自らの職種においても可能な限り教育の段階やステップのつくり方を学んできました。
残念ながら、日本の教育関係の書物では、時間軸における縦系列で書かれているものや、横の連続性の中で書かれているものがなく、わからないことは身近な教員の方や有識者と確認検証をする以外にあまり道がありません。
また、並行して、身体的な発達と精神の発達の関連性についても、不勉強であることもあり、国内の書籍では見つけることが出来ませんでした。
とはいえ、なにもしないわけにも行かないので、海外の特にアメリカの大学の資料などを読み漁り、また、教育制度についてのものを読み込むことで、いくつかの発見がありました。
それに加えて、実践の蓄積から、現在のterraceで行うワークショップでの認知の発達段階のイメージは、下記のようなものです。
1,2年生(低学年) 認知発達の段階では、まだ自己しか存在しない。帰属意識をどこかに持つということがかなり大まかにしかできない。
3,4年生(中学年) 自己以外の他者の存在認知が出来るようになる。帰属意識をある細かいサイズまでの段階的に理解が出来る。
5,6年生(高学年) 他者性の介在による、自己認識能力が持てる。帰属するグループの中での自己の役割まで理解が出来る。

これらの基準点として参考にしたのが、算数と社会のステップイメージです。
算数は、低学年で数のルールを学びます。これは、とにかく覚えることが中心的な課題になります。足し算、引き算、数の単位、掛け算九九など。
中学年からはそのルールの意味合いを学びます。同時に具体的なものではなく、抽象的な事柄を扱うような内容になります。割り算、分数、少数など。
高学年になると、それらを応用し、組み合わせたより抽象的な内容になっていきます。
この低学年から中学年への流れの美しさはあまりに素晴らしいとしか言えないと思います。
また、算数にひっかかる人も中学年の時点でつまずくことが多いようです。ルールを学び、その中から基準点となる1を見出さないことには、概念的なものである分数の理解は難しいものです。この1にあたる部分を低学年と同様の理解で進めていこうとすると、完全につまずくことになります。話が逸れました。
社会では、低学年は、生活科になっていて、身近な社会についてのことを学びます。そして、大まかなルール的なことを学びます。
中学年からは、それが拡大して、行政区域まで学ぶエリアが広がります。この時点で学ぶことが自分の足ですぐに行ける場所ではない場所までのことを学ぶことになり、抽象性は格段に上がります。
高学年になると、歴史と世界の地理になり、さらに抽象性の高いものが増えていきます。
かなり、おおざっぱに切り分けるとこういうようなことを、小学生の間に段階的に学ぶことになります。

ここで、演劇のワークショップが関わることが出来る場所はどこであろうかと考えていきました。
演劇が主に扱う分野は、「人間に関わること」です。
他者性や、関係性、自己認知などの能力の現状把握をさせるタイミングが一つの役割になりうるのではないか。
それらを確保するために必要なものとして、抽象性や抽象思考があり、その部分に意識が向き、理解させやすいタイミングはいつなのか。
低学年は他者性についての認知がまだできない段階です。ただ、創作ルールを教え込むにはいいタイミングかもしれません。一方で、そのケアが必要になる年代でもあります。
中学年は、上記の学習段階から見ても、求めるものが表れる時期でもあり、妥当性が極めて高いと考えました。
高学年は、段階的に次のステップである意識を外側に開くことから、身体の変化と相まって、内省するべきタイミングになっていきます。
そう考えると、中学年。特に4年生にターゲットを絞っていくことが重要かと考えました。これと前後する3,5年生もターゲットに入ります。
これは、現段階でのきまった枠内で実施をしなくてはいけないという場合の優先順位のようなもので、可能であれば、算数と同様に低学年でルールを、中学年でその理論について、高学年で応用的な内容というようなステップを組んだ段階的なものを行うことが望ましいと思っています。

他者性の認知や自己認識、自己肯定感を、なぜこういった活動までして行わなくてはいけないのかを考えていくと、ノーマライゼーションということが考えられます。
自己や他者の能力について公平に判断し、状況や能力に応じた行動や活動をし、よりよいものを創作しいてくということは、日常でも必要な能力であります。
これらのことは、実社会で起きている間違った平等感ということと、真逆の方向にはなります。
現在の順位を作らないとか機会の公平性というものは、他者の認知や自己認識を妨げていると個人的には考えています。
勉強が出来る、足が速い、字がきれい、優しい、機転が利く、そういった様々な点で自己肯定感を醸成する可能性があり、各々にあった能力をどう伸ばしていくのかがとても重要な命題になっています。
こういう実社会で求められる能力と、社会がこどもに与えたい環境というものの差が、今のような人材不足を助長しているのではないでしょうか。
大仰な話になりますが、我々が生まれながらに与えられる能力については不平等であり、環境も不平等。でも、権利は公平に与えられるべきだと思います。
本来的に能力差についての是正することではなんの解決にもならないだけでなく、他者との「差」についての意識を持たないことには、精神的な発達が未熟になってしまいます。自己理解や自己肯定感も同様に生まれてきません。特に、三次産業(サービス業)はこれからより多くなっていくと考えられ、そこで必要とされる最低限の感情理解が出来る人材を育成するのが難しいとさえ言えます。感情理解能力は、算数でいうところの「1」を理解しないと分数が理解できないように、自己の基準点がないと、他者への共感が自己のものと区別がつかず、理解が難しいものです。

我々の世代は、すでに獲得してしまった速度感や情報量、移動量などの量的な空間意識から、質的なものへの転換していく必要がある世代でもあります。
量的な経済観念で処理できないものが、すぐ目の前にあります。それらを乗り越えるための方法はまだ構築されていません。
また、ここ30年で構築されたものをうまく使いこなす方法を我々はまだ知りません。
多くの情報が扱えるようになったり、日帰りでどこでも行けてしまう、全国どこに居てもあまり変わらない環境、均質化したことによる、地域性の欠如が起きていて、それを乗り越える術はまだ作られていないのが現状です。
ツールはたくさん手に入ったものの、それを扱うだけの資質や方法論が確立されていないということなのではないかとおもいます。
表層にあるツールではなく、それを扱う心根をどう扱うのかっていうことなんだろう。
そのためにできることは何かないのだろうか。
演劇が世の中のためにできること。
これを今まで考えてきたけど。今やってることを明日にどう繋げていくのかっていう根気のいる作業に移っていかないといけないのだな。
と、よくよく思いました。

後は、自分が持つ言葉の強さというか、なるべく攻撃力の高い言葉を選んで発する癖もなんとかしなくては。
なんて、反省をしつつも。
明日もワークショップ。
なのでした。