僕のルーツ

カムアウトってほど大きな話じゃないけど。父方の祖母の曾祖父は宮内庁の軍楽隊の隊長で高知出身の杉本家。同じく父方の祖父の曾祖父はその部下で飛騨の神主の家の次男。祖母は香淳皇后の官女。祖父は銀時計で特待生。この時点で大分右寄り。
機能、母から追加情報。今のご近所にある本田技研の本田の辺りに御所関係の人の家があって、父方の祖母はそこに面接に行ったそうだ。生きてるときからかなりの天然の祖母は、お話があっちこっちに行くので、話がわかりづらかったのであるけど、総合すると父方の祖母の家系は高知の杉本家で明治の巡幸で東京に来たそうだ。父方の祖母の父(つまりひい爺さん)が軍楽隊の隊長で、父方の祖父はその部下。
「お前の家に男が4人いるから、一人よこせ。二番目が銀時計だったな。あれ、よこせ。」って、わけで祖父と祖母は結婚する。よこせと言ったわりに伊藤姓なのはなんでかは知らん。この祖父は次男。
今では祖母の家系の東京杉本家はもうない。無縁になったので合祀している。祖父方は祖父が次男坊だったので、その杉本家の墓があったところに合祀して墓を建てて伊藤の墓が立っている。その隣も杉本のお墓だったが、母方の祖父が次男なので、更に杉本家を伊藤に入れて、坪井の墓が立っている。
坪井姓の本家は小田原らしいけど、祖父の父は秋葉原で開業医をしていた。幼いこと大久保の辺りに住んでいたので、比較的仲がよかったこともあり、お墓が隣同士になっている。
母方の方の家は結構面倒な感じで、曾祖父が印刷をやっていて、新しき村の支援者。祖父は秋葉原の医者の家系で8人兄弟で唯一医者じゃなくて印刷関係に進み、そこで見つけられてきて、祖母と結婚させられた。お互い一目ぼれだったらしい。医者の息子と印刷屋の娘。
この祖父同士は、ある意味では非常によく似ていて、父方の祖父は教育制度設計の第一人者。神様。母方の祖父は近代印刷の父と言われているグラビアとかの第一人者。神様。神様の遺伝子が作用してか、演劇と教育の両方から逃れられなくなっているのが孫。ものの見事。
結婚の時のエピソードも同じ。なんだか知らないけど、やたらとお互いに気に入ったということ。見合いなのに恋愛結婚みたいな話しか聞かなかった。

更に、ちょっと面倒なことに、母方の祖父の妹の旦那(血縁なし)はフランス文学からマーケティングに進んだひとで、日本以外では有名な今井俊光の兄貴。おかげでマーケットと現代美術を見続けて育つことになる。ミツの絵は乱雑に描かれいるようだけど、ある調和があった。その外戚の伯父の元部下の阿部さんって人が僕のマーケティングの先生。
お茶くみしながら、なんちゃらとかなんちゃらとかコミケとかそういうもののマーケティングしてた。僕が最後に関わってたのは大岡山の京急の開発案件。
外戚のおじさんには経済というものの見方とルーツについてを学ばされた。
そのおじさんの娘がやっていたキラキラ社という前衛ロックオペラ劇団を子供ころから見てワークショップも手伝っていた。
結果的に、それらのことが今の僕の中の基礎教養として蓄積された。
どういう化学反応なのかがよくわからないけれども。表現の手段は演劇を選びつつも、社会との関わり方見方はは教えの通りに進んでいった。
そうすると不思議なもので、祖父の教育学についての見地ともう一人の祖父が持つ技術者の観点というものが合致してくる。それらを細かく縫い合わせてくれたのは、大学の教授の大道先生で、更にそれらを師匠である磯野さんが体系化してきてくれた。
そうして物事の理屈みたいなものが、持っているもので理解が出来るとなってくると、世田谷パブリックシアターに当時居た佐藤信さんが劇場のことなんでもわかったらいいということで、なんでも学べる環境をくれた。ついで真野純さんに機構のことを習う。
劇場設計については西村充さんに習い、そして、当時は音響で入ってた豊口さんに最新音響のことを習い、同じく市来さんにも習う、こんなに贅沢な時間はもう過ごせないな。と当時から思ってた。しんどかったけど。そして、しんどさに負けてスパイラルホールへ。逃げる。
スパイラルホールでは、大塚之秀さんの元で、スパイラルホールの改修を手伝う。ただし、素行が悪かったので事務所勤務にされる。そこでは今でも返しきれない恩がある今は亡き佐藤敦さんである。照明家である僕のその後の生活を危惧して、舞台の製作現場というものがどういうものなのかを詳しく教えてもらう。
その後はスパイラルホールを辞めて、舞台監督の三津久さんに連れられて、海外ツアーに出かけていく。しばらくロンドンをぶらついて、帰ってきてプランナーをやり始める。
プランを引き受けすぎてぶっ倒れたりして、いろいろあるが楽しく暮らしていた。が、何を血迷ったかアパレルに転職。営業出来なくて挫折。
とかやっている間にいわきにアリオスが出来てしまう。縁があって、アリオスの近所に住みつつ、ワークショップと照明の日々を暮らす。で、震災が来る。
震災支援活動がひと段落すると共にいわきを後にして、東京に戻ってくる。
ここで大きなパラダイムシフトが起きる。今まで習ったことを総括用して、新しい創作の在り方を模索し始める。
単に、カンパニーが作ったものに明かりを作るのではなくで、もっとコミットした形で明かりだけでなく、トータルを見ながら本番に向けてクリエィティブメンバーの一員として、創作に積極的に関わって行く道筋を探し始める。そんな中東京スープとブランケット紀行が始まる。
舞台表現は常にバラシに向かって進んでいく。つまり終演。もしくは終焉。その終焉を看取るプロジェクトを4年間の間継続してきた。この活動も演劇自体が持つ機能を強化しっつ、新しい世界を見るためのツールになり得るものだという確信があった。
そうして、今現座、持っている技能や知識、教養、素地をフル回転させながら、製作出来ることを模索している。NSFももちろんそいう場ではあったけど、それ以上のことを出来ないか。知識や教養を分け与えつつ、公平な場所を探す旅が始まった。
そんな中で、今新たなの活動拠点の一つとして、「演劇活性化団体uni」に相談役という何とも珍妙な枠割で参加している。彼らと僕の間にある言語的、知識的なギャップを埋めつつも創作に寄与することは押し付けではなく、新しい世代間の協働の顕れの一つだと感じている。
もちろん、本義的な照明プランとしては、フライングステージがあり(間もなく公演)、演劇自体の実験的な部分の積み重ねという意味では「劇団桃唄309」がある。ここのところコラボしかしないが「指輪ホテル」もある。
そういった既存の団体で行うこととでバランスを取りつつ、劇場空間ではなく、見世物でもなく、演劇を見せることを原点から問い直すことが今の僕のミッションであり、持っているものをすべて出し切るための方法なのだろうと思う。
社会事情は演劇に取って過酷な事態が続いている。少なくとも、これオリンピックの前までに壊滅的なことが起きると思っている。
ある戦いでは融和の方法を模索すること教化していくことを、持っているものを後代に伝えるための方法をずっとずっと考えている。
自分だけでは圧倒的に無理だと判断したらかuniのメンバーに付き合ってもらている。今や僕の先生に当たる人たちは、引退か鬼籍入ってしまった。僕が曲解していることもあるだろう。ただ。伝わるものを伝えられるように残すことを忘れてたら人間に発展はない。そいうことを考えている。

という、備忘録。