草演劇のすすめ

これはいわきの友達の阿部 嘉明くんのFacebookの発信をもとに、僕が返信したものを再構成したものです。

  • まえがき

震災が起きてから、劇場公演に疑問を持つようになっていった。それと時同じくして、盟友の長谷基弘が演劇の敷居を下げるにはどうしたらいいだろう。カフェ公演をやろうと思うんだけど。ということで、どこにでも持って行ける公演というコンセプトの元2畳で出来る公演をやり始めた。もちろん、僕はスタッフとして最初から関わっている。しばらくの間は、こうして作った公演をいわきで上演するプロジェクトも行ってきた。

 

  • いわきと自分のこと

いわきに関わりが出来たのはずっとずっと前に、平市民会館のクローズイベントに連れて行かれたのが最初だと記憶している。自分の照明の師匠と一緒に行ってイベントの照明をやっていた。僕の舞台製作についての先生でもある佐藤敦さんとも一緒だった。それからしばらくいわきと関係がなくなるかと思いきや。

やはり長谷がいわき総合高校の演劇の講師で通ってる時に、面白いことやってるからおいでよ。っていうことが始まりになって、アリオスの開設準備室の制作の人と知り合いになりドラマリーディングのワークショップを行い始めた。これは五年間続いた。そんなこんなの間にいろいろあって、いわきに住み始めた。そうして、しばらくして震災があった。今、僕は東京に戻ってきている。そのあたりの様々なことについては、ここでは省略する。

こういう前書きを書いたのは、どうして僕がこういうことを言っているのかについて、少しでもわかってもらう一つの道筋になるかもしれないと考えているからだ。

 

  • 草演劇について

Facebookの話に戻そう。阿部くんの投稿については、かなり省略するが「アマチュア演劇」は決してプロになるためのものではない。っていう話を書いたことに対してのリアクションが長くなってしまったので、きちんとブログに書き起こそう。ということから来ている。

自分自身の返信をそのまま引用する。


生活の隣に演劇。っていうのが、僕の標語なので(今決めた)、そういうことでいいんだと思うんだよね。

ただ、表現をする上でクオリティは求めた方がいい。草野球だってエラーや三振で悔しがるじゃん。そういう話でいいんだと思うのよ。

で、そう憤慨しないで、心の中でまだわかってないな。こいつは。って思えばいいのよ。そういう話。

表現をしようっていうことに対してクオリティは求めない。単に仲良しこよしだけでやろうっていうのは、さすがに無理があるからね。出来る範囲での精いっぱいじゃないと、試合しててもつまらないじゃん。

かったるいから、取れない球を見送るっていう感じになると、野球がゲームとしてあまり面白くなくなるのと同じで、その人が出来る範囲で精いっぱいやるのが大事なんだと思うのよ。

って、わけで、アマチュアではなくて草演劇って言おうぜ。

—引用終わり

 

この時、僕が考えていたのは、前書きでも書いていた通り演劇の敷居を下げることだ。

演劇は観るよりもやる方が楽しい。これは絶対楽しい。でも、その段階に進むのはなかなか勇気がいる、時間もいる。当然、技術もいる。まずは、観劇という手段で場を共有し、そこで起きることを共有、共感したりすることから始められたらと思っている。

稽古というのは、創作のプロセスで人の営みを再現しながら、我々がどこから来て、どこへ行くのかを考え続けるなんていう贅沢な時間で、それは他のことでも体感できることはあると思うが、人と人の間にあることはなんなのか。っていう何千年も人間が積み上げてきてたものを体感することで、今の自分を知る。芸術の本分は人に人の在り方を問うことだと思う。それを唯一リアルタイムで行い続けられるのが演劇だと僕は思っている。

一方で、演劇について訳知り顔で批評をし、戯曲や演出、俳優の演技のクオリティについての口さがない言葉を言う人たちが横行してもいる。日本には批評文化がきちんと育っていない。育たない理由は「貧しさ」が主な原因でもある。良いところを認めつつ、もっと良くするためにはどうすればいいのか。というのが芸術に対しての批評の在り方だと思う。しかし、それが行われていない。

本来、演劇は舞台上で俳優が何かをすることを指すわけではない。それを観る観客がいないことには公演として成立しない。そして、観客というのは単に観るだけではない。その場を共有し、舞台上で上演されているものを公演として成立させる責任がある。というと言いすぎだが、単に座席に座る権利の対価がチケット代ではない。座席に座り作品にコミットせざる得ないのが演劇である。つまり、何が言いたいかというと訳知り顔で上から目線で何かを言うことは、観客として自らがその作品において観るべきものが観られなかったという芸術を見る目が育っていないことを言っているだけだということだ。

僕はアマチュア演劇というものが演劇の本来の姿だと思う。アマチュア演劇とプロの演劇は、半農半武の武士と先頭集団としての武士みたいなものだと思う。人の営みを扱うという意味では、アマチュア演劇の方が生活を抱えながら演劇をしている時点で演劇そのものを支えていると言っていいと思う。当然、自分自身はプロの舞台照明家として仕事をしている。スタッフはプロとして危険が伴う舞台の安全を守ることは当たり前のことだし、アマチュアの照明家がプロにステップアップすることもある。ただ、劇作家、演出家、俳優は果たして、そういうステップが用意されているか。と考えるとそんなことはない。アマチュアとプロの明確な差も実はない。単に食えるかどうか。という尺度があるかないか。くらいのものだ。

ということを踏まえた上で、アマチュア演劇という言葉がいかんのではないかと思った。

高校野球で活躍して、社会人野球、プロ野球みたいなルートもあるが、それは狭き門なのはみんなわかってるはずだ。そして、自分の楽しみとして、野球がやりたい人たちが草野球をやっている。草野球のピッチャーにプロ野球と同じに投げられないことを怒る人はたぶんどうかしている。目的がまったく違うのだから。

アマチュア演劇についても同じことが言えると思う。生活がある中で別の仕事をしながら演劇をしている。仕事をしている上に演劇をやろうっていうことに対して敬意を払うこと

があっても、蔑視するのは甚だおかしい。でも、なぜか区別が出来ずに文句を言ってしまう。

なんで、大谷みたいに打って投げないんだよ。と、なんで、大竹しのぶみたいに演技できないんだよ。っていうのは同じことだ。

そんなわけで思いついたのが、「草演劇」だ。

自分たちの楽しみのために演劇をして、小さい(時に大きいときもあるかも)公演を打つことは、演劇という文化の下支えとしても、彼らの日常の文化程度の向上という意味でも、プラスのことしかない。

 

  • 草演劇のクオリティについて

続いて、演劇のクオリティについての話になった。

これもFacebookの引用から始めようと思う。

 


担保しないといけないクオリティそのものよりも、求めるクオリティの質というものがなんなのかを考える。っていうことについては絶対に必要なのだと思う。

野球との対比ばっかりであれだけど、技術を身に着けることはそれを楽しむ上で必須事項になるとは思うんだよ。あとは、まじめに球追っかけるか、対峙するか。みたいな精神論だから、それは外の人から見て、どう思うか。ってことだけど、そこは考えなくてもいいと思う。

ちょっと話が逸れるかもしれないけど、批評の作法としては良かった点を最低一個でも挙げた上で、もっとこうしたらよかったのに、惜しいね。みたいな視点を持って話が出来るとよいんだと思うのよ。

演劇はっていうのは、体感的なもので、同じ空間、時間に居ないと観られないものだから、上演したところで演者や演出家のものではなくなるし、観客のものでもなく協同で作られた場になってしまうものだからね。そういう意味でお互いに作品自身や観客自身を客観的に見て、どう感じたのかを共有しないと上っ面の会話しか出来なくなってしまうから。

そこにその場で創作を行った側でいられなかったことに対しての嫉妬みたいなものや、演劇に対して理想に燃える批判者みたいな考え方の人が来るとおいおいおい。って思わなくもない。

作品として、アウトプットしてしまうとどうしても一つの責任みたいなものが付いてきてしまうのは致し方ないところもあって、それが評価というものだったりする。草野球だったらへぼピッチャーは下手くそだったな。っていうことを言われるのは仕方ないし、大根役者は大根だったね。って言われるのは仕方ない。だからやる方もそんな出来栄えとかに関してもそこでグダグダ言い訳しないで済ませられるといいと思うんだよなぁ。

ま、これは演劇に限らず、人が表現するものすべてに当てはまることなように思うけどね。

それはそうとして、草演劇。

アマチュア→プロという構図ではなく、自分たちの生活空間と時間の使い方を駆使して、生活を犠牲にせず余暇の部分で演劇と向き合うことを目指す演劇の在り方の一つ。

我ながら、なかなかいいと思う。

「ご趣味は?」「草演劇をしょうしょう。」「あら、いいですわね。」ってなことになるといいんだけど。

—引用終わり

 

書いている通り、演劇を日常の中に取り込んでくれることは、演劇文化が進展していくためには必須事項だと思っている。

一方で、日本の演劇史は左翼運動史と並走している期間が長すぎることもあって、いまだに偏見が持たれている。そして、なんでか知らないが当時の演劇関係者の中で流行っていた批判理論に則ってやり取りが交わされる悪習が今も残っているのではない。単に、批判そのものはその事物について詳しい理解がなくてもできる。自分自身の考えと照らし合わせて、飲み込めないことを二項対立の構図に持って行くだけで出来るので、安易な批判は簡単に行えるということと、それによりマウンティングが行えるということで、「お前の演劇はなっていない」という一言で他者を貶め、自分の地位を高める文化がなんとなく続いてきたとも言える。これが日本の演劇、特に現代劇の地位が他の国に比べて非常に低い原因だともおもている。

そういう人たちに言われ放題にされるのも腹立たしいし、演劇というものは本来人間に寄り添い、人間だけで表現をする芸術だという原点に立ち返ると共に、生活を守り演劇をするという人たちのことを「アマチュア演劇」という括りに縛りつけるのではなく、「草演劇」という呼び方を提唱する。

「草演劇」は、自らの楽しみとしつつ、作品を発表し、共有し、人の営みについて考え、人と向き合うという演劇の根源的な役割を果たしていく。それが地域文化の醸成にも繋がるものであるし、僕のような演劇に生かされている人間に取ってはありがたい存在になるものだ。

誰もがプロにメジャーに行きたいわけではない。スポーツや他の芸術分野と同じように演劇でも自分が持っている考えや表現を扱う場があるべきだ。

「草演劇のすすめ」 終