観劇記録 たいらじょう「星の王子様」

全部一人でやる星の王子様のたいらじょうさんバージョン。
厳密に言えば、星の王子様ではない。
星の王子様は読んだ人それぞれの王子様が居て、それがいい作品だと思う。
それを「平常」という人のフィルターを通して見せる手法は、正解だと思う。
扱う人形の可愛さ、一つ一つに対しての繊細さは目を見張るものがあり、とても素晴らしいものを見れた。
作品に対しての愛情が溢れ、一つ一つの言葉に対しての芯がしっかりとある構成も素晴らしい。ある意味では隙のない全編を見せるということの偉業は賞賛に値する。
何よりも素敵なのは、王子様の人形の印象の残し方、あえて使わないという作り方は印象をつけて、人間になり、人形になりを繰り返し行うことで全編を通した統一感の作り方も素敵だった。
王子様や飛行士を通して展開する社会へのアンチテーゼの提示の仕方はとてもすごい手法であった。
この作り巧さには舌を巻く。

ただ、厳密に言えば、人形劇ですらないとも言える作品だ。
時に人形を使い、時に俳優が現れ、それを全て一人でこなして見せる世界はとても素敵で素敵がいっぱいで少し重い。

個人としては、総じてとても楽しいし、面白かった。

ただ、正直長かったという印象も強い。また、平さんを前面に押し出しすぎではないかという印象も強い。
もう少しコンパクトに表現に対しての精査があってもいいのではないか。
作品をする上で演者のノリというものや、感覚というのはとても大事なことではあるが、演出家が居て、この作品をきっちり見せるために必要なものはなんなのか、そぎ落とせるものはないのかということが考えられていれば、その先に見えてくる世界はもっともっと深いものになるような気がした。
「平常」という演者を体感するという意味ではおなかいっぱいではあるけど、「星の王子様」を体感するには何かが足りないという印象が残る。
この感覚の出所は作り上げた作品に対しての見る側が持つべき視点の欠如にあるのではないだろうか。
この作品はきっともっともっと上のレベルの作品になって然るべき素養を持っている。
にも関わらず、あまりにも演者「たいらじょう」にフィーチャーしすぎているために、せっかくの作品がディナーショーの様相を呈している。
体感すべきは作品であり、演者を体感させることではないはずだ。その作品を伝えるためには演者が出すぎてしまっている部分を削ったり、増補したりということがあっていいと思う。
単純に上演後の感想の一番に来るのは「長い」「疲れた」という印象を持ってしまう。
演者の素敵が部分を見てしまった分、見せすぎない隠れた部分というものがあっても物事は伝わるし、そこを制御することで、より作品は良くなっていく。この作品を見る限り、カンパニーとしての力が低いというのが見えてしまう。
これは演者の責任ではない、一人芝居であっても、それを作品として劇場に上げるためには多くの人が関わっている。しかし、このカンパニーはそこで作品を仕上げるという意味で人々が関われていない。作品をよくするためではなく、演者が気持ちよく作品を行うための環境を作ることに必死なのではないかという印象が拭えない。
実際そうであるかは知らないが、作品を見た感想としてはそういう印象しか持てない。
たとえば、これが90分まで作品をそぎ落とすことが出来たなら最後のシーンにはもっと大きなカタルシスがあってもいい。長すぎるがゆえに予定調和としての終わり方になっているのではないか。というように感じた。

作品に関わることというのは、表に出る演者の素養も大きな要素として扱うべきではあるが、裏に居る人間がどれだけ、その作品に磨きをかけられるのかという部分も含めて、関わるということであると僕は信じている。
この作品には、パッケージとしての完成度の低さが目立つ。
演者の能力が高いだけにパッケージとしての弱さが作品のマジョリティを下げてしまい、好きな人が好きな作品というステイタスに落ち込んでいるのではないか。
舞台表現は常に想像による表現である。
作品を見るうえで観客に想像するという形での参加する権利を与えることが必須であり、その想像力を原動力として、作品は大きく飛躍する。
そこまで押し上げることが出来れば、この作品は素敵がいっぱいで夢がありいい作品になる。
演者と作品が両方とも足を引っ張りあうことになってしまう。表現力、能力、感性がすごい表現者なのに、そのすごさが伝わらないのは演者の責任というよりは制作、スタッフを含めた形でのカンパニーの責任ではないだろうか。