公立小学校・中学校の適正規模・適正配置等に関する手引のニュースを読んで考えたこと。

なんだか、いろいろ考えて、ツイート書いていたら長くなったので、Twitterより、転載。

ゆっくり読むことにする。統廃合された学校では児童同士の関わり合いが学校だけになってしまう傾向がある。地域の核としての意味もある。適正とは誰のための適正か。

中教審-資料2-2 公立小学校・中学校の適正規模・適正配置等に関する手引(案)
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/gijiroku/1354538.htm

先ほどの資料にあわせて、第1章で学校が持つ、社会性育成の社会の基盤についての議論がないのが気になる。これは考えどころ。
中教審-資料2-2.子供の発達や学習者の意欲・能力等に応じた柔軟かつ効果的な教育システムの構築について(答申)(案)
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2014/12/24/1354209_2_2_1.pdf

地域社会という言葉や地域という言葉は、帰属するべき土地や、住まうべきところ。そういうものから切り離して考えるようなことではないと思う。人を年に集中して管理するやり方は表面的なコストの面はよくなるだろうが、それで失うものは計り知れないものがある。

小中学校の統廃合の件と、限界集落のコストの考え方の骨子は、基本的には同じ目線なのだと考えている。それは、人間の存在意義に対して、表面的なコストを重視しているという点である。これは土地に帰属するということを否定しているとも言える。憂慮すべき事態であると僕は考えている。

年間を通して、様々な地域に行き、いろいろな学校に出会うが、中規模校以上と小規模校に接しているときの大きな差は、小規模校ではまだ顕現していない新しい問題やその解決方法を見出す未来が感じられる。一方それ以上の規模ではそういうものは感じられない。少なくとも人間関係のことについてはそう。

小規模校について実体験で知る限り、小規模校でよく言われる「おとなしい」「多数の前に行くと弱い」などの多くの評は誤りであると思っている。社会性育成機能についても、劣っているとは思えない。むしろ、優れていることの方が多いと感じることが多い。

集団規模の大きさが、今の子供たちの抱えている問題に対しての解決を促すわけではない。小集団での活動を充実出来ず、集団規模が大きければ出来ることや学べることは小規模でも出来る。学校においては、「小は大を兼ねる」細かい機微を持つことの方が重要なのではないだろうか。

次代を担う子供を育成するためのコストを下げようとすることは、少し先の未来を厳しくすることに他ならない。これは間違いない事実である。少人数で固定化した集団をただ混ぜ返すだけで問題解決するならば、人間関係の問題はもっと少なくていいはずだ。問題なのは、そこではないのだと思う。

裏返して、大きな問題なのは、大規模、中規模の学校において、児童生徒が地域に対しての帰属意識を持てていないことや、人間関係の構築が自己主張によるサバイバルで作られていることではないだろうか。受け入れる力の弱い子供たちを大量生産していることの方が問題なのではないだろうか。

少なくとも演劇の専門家として、僕が学校を見て回る限りでは、こういう事態を多く感じることが多く、未来において、必要とされる受容力を持った児童の育成には、小規模校が向いていると考えている。また、小規模校の方が地域への接続や帰属意識は高いことも多い。

地域に対して帰属意識を持ち、土地の歴史と共に存在することや、直接寄与することではないが、そういった意識を持とうすることが、今のこの国にとって重要な要素であると思う。年々希薄になって来ているこういった意識をどのように育成するのかで、次代に残す世界が変わると思う。

少なくとも、そういうことのために日々、各地の学校に行き、演劇で役に立てることがあれば、それを使うという日々を送っている。たいそうなことを言ってしまったが、少しでもそうなればよいというために活動をしている。

ここまで。

 

追加資料

中央教育審議会(第96回) 配付資料

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/gijiroku/1354209.htm

学校規模適正化・適正配置等に係る検討経緯  (PDF:38KB)
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2015/01/19/1354538_5.pdf