自らの在り様を問うこと

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なぜ、半跏思惟像なのかは、わからないけど。

僕の本業は舞台照明家という「ジョブ」を持っていて、「演劇人」というカテゴライズの人だと思っている。

もちろん、演出もやるし、製作も行うし、ワークショップの企画・運営もやる。
でも、それらは、ジョブに対しては二次的なものでしかない。

そんな中でワークショップというのは、「演劇」というもの「舞台表現」というものが、どのように社会参画していくのか。ということを問われる場所であると考えている。

演劇、そのものは歴史がとても古いものだし、日本での演劇の歴史もとても古い。
ただ、現代社会における演劇の存在意義は、昔とは格段に変わっている。

昔は、メディアとしての役割が強かったし、ある人物やある事象についての仮説を提示し、それを元に考える下地を作るものとして有効だったと思う。
ただし、それは価値観が複雑化していく前の話である。情報量も今と比べると格段にせまい範囲の事柄しかわからなかった。そんな中での立ち位置であったのだと思う。

急激に価値観が複雑化していき、情報量についてはいくらでも手に入るような状況になってきた。
そんな中で演劇は昔持っていた役割を徐々に失っていったのだと思う。

と、自分の考える演劇史を吐露したいわけではないので、まぁ、そんな前提で。

ここのところ、演劇のワークショップであまりよくないと感じることを聞くようになった。

一時期、僕がまだ子供のころ、アーティストの社会参画という形で市民と共同で作品を作るということがあった。
その時に、幼いながらもよく聞いたことが、アーティストというモンスターが市民を食い荒らすとか、振り回すとかいうことだ。
子供だったので意味はよくわからないが、そういう言葉を聞いたという事実は耳に残っている。
大人になって、「アーティスト」という立場に立ってみて、自分がそれ以外のジャンルの人たちと比べて、暴威をふるいやすい類の人種だということをよく痛感する。

それで、よくよく考えてみた。「アーティスト」だから暴威をふるっているのではなくて、伊藤馨という人間が横暴なだけなんじゃないか。とか。そういうことを。
ワークショップをやるようになって、それはそうなんじゃないかな。ということを感じるようになってきた。
ある種の枠組みに対して、真摯に向き合うことが出来る能力が分、一方で枠組みを壊す方法についても熟知している。
そういった横暴さを持っているということを体感することもままある。創作を行うということは、何が何でも作品を作らなくてはいけないという悲壮感にも似た切迫感と共に生きることであり、それが出来なければよい作品は生まれないとも思っている。

その一方で、創作の場で培われた技術を用いて行う演劇のワークショップでは、特に児童生徒を相手にするものについては悲壮感や切迫感を味わわせることが目的ではないと思っている。
何をしに行っているのかというと、人と何かを作るための方法を演劇は最初から終わりまで。言うなれば、生産から消費までを一気に行う。そのことは社会の縮図であり、社会を抽象的に表す一つの方法でもあると思っている。それを体感させることが、教育の専門家ではない僕たちが学校に行くという意味であると考えている。

ここで十全に考えなくてはならず、一つも取りこぼしてはならないのは、児童生徒に対して暴威を振ってはならない。そのリスクを排除することである。
僕らが普段縦横に使っている創作の技法のすべてを使うことは、とても危険である。
どんなにリスクを理解していると言っても、通り過ぎるだけの大人である僕たちは決して子供たちに傷跡を残すようなことはしてはならない。
それだけは絶対にやってはならないことだ。そのために出来ることをすべてやらなくてはならない。
リスクを排除する方法を、それこそ頭がおかしくなるくらい考えて、考え抜いて、それでもダメなんじゃないか。と考えて。それじゃもう何も出来ないじゃん。くらいまで考えながら、組み立てていかなくてはならないものなのだと思う。

手前みそだけど、terraceでは基本的にプログラムを一人では作らない。
理由は、一人が頭の中で考えたプログラムは必ず穴がある。
アーティストの暴威が振るわれる可能性が残っている。
そう考えているからである。

実際、僕個人に限って言えば、プログラムはある程度しっかりしていればよく、種類もそんなになくていい。
大事なのは、その運用をどこまで慎重に外部の人と連携をして行えるかということである。
それ以外はどうでもいいことであるとさえ思う。

そこに本当にリスクがないのか。
無茶な方法で、ただ傷跡を残すようなことはしていないか。
それだけは考えなくてはいけないと思う。

ワークショップのことも、僕たちのことも忘れてもかまわないから。
もしかしたら、大人になるのが楽しいことなんじゃないか。と、思ってもらったり。
人と関わることで知ることが出来る世界があるってことを少しでも伝えられたらと考えて、ワークショップに関わっている。

そうして、「演劇」や「舞台表現」が社会の中できちんと立場を作っていけることを願っている。

だから、毎回の事前準備を延々として、シミュレーションをして、話す内容をいっぱい考えて。臨む。
それが出来なくなったら、やめるしかないと思いながら。

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