帰りの新幹線の中で。

愛媛県西条市に25泊してきた。
今、帰りの新幹線。名古屋を過ぎました。
がつっとフェイスブックに書き込みしてたんだけども。
残念ながら、消えました。
意気消沈。

何書いていたかというと、今日の実施を振り返りながら、焦点化されているいじめや不登校を作り出す環境をどう打開していくのかというようなことを書いていた。

いじめや不登校のような具体的に見えている問題の根の部分には、それらの予備軍が周囲にいっぱいあり、今問題が顕在化していない学校でもそれらは埋まっているということなのだと思う。

昔は、学校でぺちゃんこに怒られても、公園や家とか逃げ場がいっぱいあったし。
そこで学ぶことも多かった。
どういったことで人が仲良くできて、話を聞いてもらえて、自分をどう扱えばいいのかを教えてもらえるヒントがいっぱいあったように思う。
少なくとも幸運な僕はそうやって育ってきた。
誰もがそういう愛情を甘受する権利があり、それらによって育てられてきていたと思う。

こどものころにテレビゲームが流行ったころ、そのゲームで遊ぶことよりも友達といるための一つのツールだったように思う。
自分のことだけを考えて遊ぶようなゲームは今のようになかったと思う。

自分はアーケードゲーマーという類の人間で、よく見知らぬ人と対戦をしていた。
今のアーケードの対戦は、対面台という形で直接相手に交渉をしなくても対戦が出来る。
当初は、そういうゲーム台はなかったので、必然知らない相手と対戦をするときには、一声かけるのが常だった。「対戦いいですか。」それで出来た友人たちは、今でも付き合いがあり、昨日も髪を切ってもらったし、来週には忘年会をやる。

当時の僕たちにとって、ゲーセンはある種のサロンだった。

話がかなり逸れた。
そうやって、誰かと繋がろうという欲求が本当に希薄なように感じる。
こどもたちと接していて、とても強くそういうことを感じる時がある。
こどもは親の鏡なので、きっとそういう干渉されない環境を求めてしまっているのだろう。
そういうことが、様々なことへの無関心や非干渉へと繋がる。

先日、とある小学校でワークショップの休憩時にちょっとした事件があって、ドロップしたこどもがいた。その子が戻ってくるまでみんな待つように。という指示を出したら、ひとりの子供が「連帯かぁ。」と言っていた。
連帯って言葉はいつから悪い言葉になったのだろうか。
彼はきっと悪い言葉としては使ってない。状況を表す言葉が勝手に口から出たという感じだった。

社会は人間が作っている。その社会のどこかに帰属せざるを得ない。
いくらアナーキストだと言っても限界がある。
帰属することで、通貨が使えるわけだし、ご飯も食べられる。
だから、どのことも関係ないことなんてない。
社会が抱える問題はその社会で暮らす限り共有しなくてはいけないし、徐々にでも解決していかなくてはいけないことなのだ。
今回の選挙の結果は見事にそれを表していると言える。
こんだけ投票していなくても政権が作れてしまうことが問題でもある。
自らが社会の一員であること示す一つの形として、参政権や労働権がある。
社会の中で自分がどういう役割を果たしていくのが見えないというのは、正直に言うとただの甘えに過ぎない。わからなければわかるまで考えなくてはいけない。
宿題は出すまで終わらないのが、大人の宿題だと思う。

今まで宿題をしてきていない人たちには、いっぱいの宿題があるので、その分だけやる気がなくなる。残念ながら、提出期限はなく、延々とやらなくてはいけない宿題を抱えるのが大人というものなのだと思う。
やらなくていいとか、やりたくないとかではなく、新たな宿題が常に出てくる。
そう考えるとかなりうんざりだけども。実際、そういった宿題をすることは日々を充実させるし、世の中のを少しでもよくする一つの手段になる。
こどもの居場所感という言葉がここ最近よく使われる。
大人の居場所感の方が、こどもよりつかみやすいと思う。
世の中を知り、自らが何者なのかを問い続けることで得られるものだからだ。
宿題を忘れるとそれもまたすぐに流れてしまうものであるが。
まずは、大人が今抱えている宿題を終わらせなくちゃいけないんだろうな。

明日もがんばろう。っと。