20150803 最近のこと。

戦前、戦後の思想史を読み続けているけれども、その時代の70年代半ばまで、ありとあらゆるところで国家や企業とみんな戦っていて、きちんと自分の生活を守るための何かを抱えていて、そのために時間を割いて学び、次の世代に残すためのことをやろうと努力していた。しかし、結局のところ、そういうことが面倒だと言う人が増えてくるようになり、徐々に瓦解していき、地域のコミュニティは破壊されていき、集団よりも個が重んじられるべきだと言う流れや、個人の見解や気分を優先する傾向が醸成されていく。
それらのプロセスの中に土地とのかい離や人間関係のわずらわしさ、金銭の価値が人間よりも優位になっていくということがあった。結果的に僕たちは安全な生活を維持していくための保障や公平性、安全な食べ物などという本来は必要不可欠なものを利己的な個人主義とのトレードオフとして、手放したということになるんだろう。
全体と集団は違う、全体主義と公共の福祉は違う、利己と個人主義は違う。
長期的な流れの中で、自分がどういう役割を果たすべきなのかということについて考えることは重要なこと。
今の時間の中で世の中を見ていると大概が本当にろくでもないことがたくさん起きていて、そのろくでもないことを引き受けなくてはいけないのに、自分に取ってそれが利益にならないから、自分に取ってはその行為が不快だからということで簡単に避難している人は多い。確かに快不快という観点で言えば、今のろくでもないことに対してのカウンターを打つことはとても不快。そもそもの始まりが不快なんだから、それが出す音も不快な音であることに変わらない。
そこに忍び寄ってくるスピリチュアルなことだったり、ニューエイジっぽい耳障りのよい「逃げてもいいんだよ」「考えなくてもいいんだよ」的なことやそれを流布することは、結果的に根源的な不快なものを増大させて、最終的には快不快に関わらず強制されるものになっていく。
ちょうど、70年安保が終わり、そういった思想的な社会運動が消沈していき、消費資本主義の極みであるバブルに突入していく時間に僕は生まれて、その時間を過ごしてきた。
その時間の中で今の世の中で起きている物事は醸成されてきて、今のようなわけのわからないことを引き起こしている。
命令だけを聞いて、耳障りのよい音にだけ耳を傾けて、足元を見ない行為が、自分に取って楽であったり、何か幸せであったと思うようなことは一度たりとてないし、これからもないのだろうが、同じ世代を見渡してみるとそういう人々の方が多いんだな。とも思う。
そもそもある意味では反社会的な類の仕事であるし、そういう系統の人間でもある。
どちらかと言えば、ドロップアウトしっぱなしの人生でもあるし。
子供のころに、アップルが1984のコマーシャルをやっていて、「うわーすげー。」って思ってた。それが「1984」っていう小説だって知ったのはもう少し後だ。そこに描かれている世界には絶望しかなかった。大友克洋が描いていた「気分はもう戦争」とかを読んでは、絶望してみたりしてた。小学生だもんな。いま考えると驚き。
中曽根のロンヤス外交とかの時代だ。タカ派が幅を利かせていた時代でもあった。
具体的に危険なミサイル防衛を考えて頭を抱えていることも多かった時でもある。
SS20っていうミサイルをソ連が配備したりして、「風が吹くとき」っていうアニメがあったり、核の傘という言葉があり、家庭用のシェルターを買うだの買わないだのっていう話があった時代だ。
そんな時代を生きてくる中で、僕たちはいろんなものをトレードオフして捨ててきてしまった。一番大きな捨ててきてしまったものは、大事なものを守るためにしなくてはならないこと。なのではないかと思う。

今の自分に都合がいいものを手に入れるために未来に借金する癖がついていて、そのことについて語るのは耳障りが悪いからやめておこう。
運動をしている人たちは極端に走っていて、正確な情報ではないし信用してはならないから嫌い。そして、そういうことを考えるのはばからしいからやめておこう。
過去の自分たちが見過ごしてきてしまって、きちんと自分たちの権利を守るためにはどうしたらいいか考えてこなかったし、そのことについての話をすると胸の中が締め付けられるような気持になるから、不快なのでやめておこう。
そうした考えの中には、自分以外は存在しない。
やめておいた自分が後ろ暗いので、柔らかい言葉でそれでいいのか。なんて言葉を吐いてみて、自己弁護をしてみるが、そんなものは状態を悪化させるだけなので、そのうち口をつぐんでいく。

こうやって書いてきていて、これは同じ論法で中国脅威論、戦争法案や歴史修正主義への誘導にも使える内容なのだな。と思った。もちろん、どちらも反対であるが。

ただ、きちんと考えることをやめずに、自らの考えを持ち、個人の責任を果たしていく不断の努力の部分では、やめておこうは許されない。
今の日本は明治から考えても空前の貧しさの中にある。そこの空いた胃袋が満たされることなどなく、餓鬼や亡者の国だと言ってもいい。それは「やめておこう」で逃げてきた結果なのだ。
今の自分のために明日の自分から借金をしてきたが、もう返済できる限界はとうの昔に超えていて、今の自分は昨日の自分からの借金で首が回らない。
少しずつでも返済していかないと、少しずつでも虫みたいに反応するだけの状態から苦しさを伴っても立ち向かっていくことをしていかないと、本当にもっとひどいところに落ちていくことは間違いない。苦界に落ちてしまう。

演劇なんて楽しく適当にやっているんだろうって思われているだろうけど、僕はそういうことに立ち向かう力を考えるための場所でもあり、同時にそういう力を人に与える芸術だと思ってやっている。
一方で、ある思想を伝えるための手段ではないとも考えている。日本での演劇の地位の低さは一つそれに起因していると思っているが、そのあとも演劇の人たちはそのことに対してきちんと立ち向かわなかった結果が今の日本の演劇でもある。
つまりは、どちらも同じことなんだと思う。
芝居は浮世をうつす鏡とはよく言ったものだ。
でも、僕はあきらめない。

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