最近考えていること。主に演劇から見た日本のこと。いや、主観的な未来に出来ること。

わからないものを排除する。ということこそが、知性無き社会を象徴していて、刺青禁止とか○○禁止とか、そうやって何もかもを排除するのは、簡単なこと。そういう考えが足りない社会が全体主義を生み。やるかたない不安が敵を必要として、外国人や弱きものを目の敵にして、果ては戦争に向かうんだよ。

考え続けること。それこそが人間が人間であることを意味する人間らしい本性というものだと思う。それが出来ないということは人間であることを止めるということになる。芸術というのは、その最たるもので人間というものは一体何なのかというものをあらゆる形で問うていることが芸術なの。

考え続けることは、実は苦痛だ。答えがないすっきりしないことを抱え続けなくてはならない。だからこそ、誰かが居て励ましてもらわないといけないし、誰かを励まさないといけない。考え続けよう。と。そういうことを出来る社会こそが未来に繋がっている社会なのだ。

いつも説教くさいことを言っているけれども、なんだかとても勿体ないことをし続けているような気がしていて、いま僕が持っているものを少しでもほんの少しでも誰かに分けて、また誰かからもらうことで知性というものは積み上がっていかないから、誰かにもらってほしい。そういうこと気持ちなのだ。

ふと、思ったんだけど、今の世の中の人たちって、家族と喧嘩するような感覚で見も知らない人たちが分かってくれないと言って、あれやこれやを叩いているけど、「いや、そんなにお前のこと知らんし」みたいな感じの千日戦争をSNSでやってるんだよね。そら、わからんわな。うん。
「ちょっと」自分と考え方が違う人に赦しを与えることは、お勉強が出来ることやモノを知っていることとは関係ない話。
確かに対立概念にあたる人たちのことを糾弾したい気持ちはあるかもしれないけれども、「差」を受け入れなければ、いつまで経ってもこの地獄が続くということなんだよ。
全体主義と個人主義は対立概念ではない。孤立した個の集まりが全体主義なのだ。個が独立して協働出来ることが自由主義の基礎要件。
個々人が権利を守り、お互いを守りあえる社会こそが洗練された文化的な社会である。知識や教養が必要なわけではなく、少しお互いのことを知ることが必要なのだ。
他人は大概知らないから他人なわけで、世の中には圧倒的に他人だけで作られているんだわ。だから、その他人のことをとりあえず悪し様に言っても向こうも悪し様に言ってくるだけだよね。口から出る汚物は自分も汚すわけだよ。その口で語られる自由も汚れていると思うんだよ。綺麗ごとも大事。
例えば、一方的に権利を侵害されていたりするのであれば、話が違う。例えば、今の政権に僕たちは権利を侵害されている。これはポジションにおける発言なので、何が問題なのかを言わなくてはならない。ただ、それも悪し様に言うのではなく、言葉を選ぶべきだ。自分自身が何を信条にするかということは、誰かを貶めることとイコールになってはならない。
どの考え方を支持するのかということに対して発言するときに、相手の考えを貶めるようなモノの言い方は知性を汚すし、共感されることもなく、結果的に自分のことを分かってもらうことは出来ない。
僕自身も腹が立って致し方なく、誰かを揶揄することはある。そして、そこに知性が足りずに罵倒になることもある。今、本当にそういうものの言い方が自分が信条として抱えているものを汚すことになっているということを痛感する。特に、舞台や芸術、教育に関わることに対して、強烈に思う。
とある誰かをバカにしたり、すべてをその誰かのせいにして悪口を言うのは簡単な発散ではあるけど、何一つ問題は解決していかない。本当は何が問題なのかをもう一度考えなくてはならないし、それを誰かと話をしなくてはならない。SNS越しでもいい。誰でもいいからちゃんと話をしよう。
カウンターって大事だと思うのは思うけれども、各個撃破していく戦術は結局無駄打ちだと思うのですよ。それよりもきちんと話題にして、対話や会話に織り込んでいくこと。つまりバラバラに行動している間はムーブメントにはならないし、大きな声の人が勝つ仕組みを崩せない。だからこそ、連帯を。
知らない他人と何かで繋がって、ちゃんと対話をして、持続可能なコミュニティを作らないと、僕たちの生活は今後も倍々ゲームで落ち込んでいく。演劇をやっている僕は演劇をみんなでやったらいいじゃないか。と、思うけど、そんなにちゃんと説明できる人がいないから、困ったなとも思う。
生活が苦しい人に演劇やったらいいじゃない。というのは、遊んだらいいじゃないか。というように聞こえるかもしれないけど、なんでもいいから台本を持って読みあうだけで、話のタネが出来るし、それをすれば世の中から他人が少し減る。そして、生活を立て直す種にもなる。
演劇なんて、経済活動と遠いと思うかもしれない。でも、そんなことはない。経済は人との間で何かが交換されることで起きるものを言う。そして、演劇はその人との間に特化した芸術だ。これ以上なく経済活動に近い。芸術は生活の役に立つものだ。人のことを知れば、生活を楽に出来る。
演劇は生活の隣にある。「生きづらさ」の原因を取り除いてくれるものだ。でも、残念ながら使い方がわからない演劇ちょっとやってたんだよね。みたいな人たちが演劇は高尚な芸術で人前で度胸試しするみたいなもんだ。とか言ってしまうし、そう思ってしまう人が多い。そんなことはない。簡単だ。
人間で人間を描くのが演劇という芸術だ。普段、僕たちは少なくともどこかの誰かと関わっていて、人間らしく暮らしている。それを少し広げるのが演劇の役割だ。
おっきな声も衣装もいっぱいのお金も要らない。何人か人が集まれば演劇はやれる。
やり方なんてなんでもいい。絵を書くのに鉛筆と紙があれば、絵は描ける。なんなら地面に棒でもいい。でも、鉛筆と紙の方が便利。台本なんて無くてもいいけど、それよりはあった方がいい。青空文庫にもある。で、ちょっと何人かで集まって、声出して読んでみる。それだけで十分演劇だ。
今の日本の演劇は「演劇を苦労してやっている人たち」の「苦労」わかってもらいたい。そういう気持ちで出来ていると思う。「選ばれしもの」が演劇をやっていると価値づけたい。それがお金に換わると勘違いしている。「選ばれしもの」でなくても演劇は出来る。ってことを伝えてこなかった。
今の日本の演劇は「演劇を苦労してやっている人たち」の「苦労」わかってもらいたい。そういう気持ちで出来ていると思う。「選ばれしもの」が演劇をやっていると価値づけたい。それがお金に換わると勘違いしている。「選ばれしもの」でなくても演劇は出来る。ってことを伝えてこなかった。
プロ。って言葉は、結局「選ばれしもの」だという価値づけをして、自分を切り売りするようなやり方でしかない。演劇は自分を切り売りしてやるようなものではない。そういうものの言い方で誰かからお金をかすめ取るやり方をしてきたことを止めない限り、演劇にも未来がない。
だからこそ、持っているものをどんどん公開して、いろんな人に触れてもらって、身近なものだと言うことをわかってもらわなくてはならない。そのために何が出来るのかも考えなくてはならない。まずは、そのことから始めていきたい。そう考えて15年以上経っている。まだうまくいかない。でも、諦めない。